成功を収めたイチゴ農園で作業する伊藤さん(左)と息子のエディーさん

 日系社会のさまざまな団体で活躍した伊藤富雄さんが1日午前7時45分、老衰のためウェストミンスターの自宅で亡くなった。98歳だった。葬儀は20日にアナハイムのオレンジ郡仏教会で執り行われた。伊藤さんをしのび、その生涯について、オレンジ郡日系協会の月刊誌「オレンジネットワーク」に2021年3月から11月まで連載された記事より抜粋し紹介する。
米国で生まれ一時帰国
日本兵として情報部に従軍

温厚な性格で誰からも愛され、人望を集めた伊藤富雄さん

 伊藤富雄さんは日本から移住した両親の元で1924年10月22日、4人きょうだいの次男としてカリフォルニア州ベニス(当時のパームス)で生まれた。一家はその後ガーデナに移り手広く農業で生活を立てていた。
 41年、16歳の時に、両親の希望により、伊藤さんは学業を修めるために日本の故郷である三重県四日市に向かい、親戚の家に寄宿して川原田農業学校(農業高等学校)に通学した。その年の末ごろまでに日米間の緊張が高まり、米国で日系人を疎外するボイコット運動が顕著になったことから、両親は三重の親元に一時引き上げることを決意して帰国。帰国1年以内に日米が開戦した。
 44年に岐阜の陸軍航空隊機械学校に入学し6カ月の修学過程を終え、やがて英語が堪能だということで情報部で働くことになった。47年、府中市にあったビクターオート株式会社で社長付きの特殊通訳者として働くことになり、49年妻千鶴子さんと結婚。両親は先に米国に戻ったが、伊藤さんが帰米したのは58年、33歳の時だった。

帰米し、両親とイチゴ栽培
伊藤ファーム成功収める

 両親は当初ガーデナで農業をしていたが、その後ロングビーチに移り、さらにオレンジ郡のウェストミンスターに移っていた。戦後はガーデナの地価が上がったのに対しオレンジ郡はまだ開発途上だったため、安値で広い土地が入手できた。ウェストミンスターのシュガー街(現在のマクファーデン)一帯の土地でイチゴを栽培するようになった。
 伊藤ファームのイチゴはどれを食べても甘くておいしいと高い評判を得たが、その理由は妻の千鶴子さんがビジネスに厳しく、良いイチゴしか売らなかったことにあり、目を光らせて一つ一つ、イチゴの出来具合を厳しく管理したからだという。
 家族経営のイチゴ農家の仕事では、各自が得意分野で活躍した。外交的な性格の伊藤さんはさまざまな団体に属してPRや販売拡大に努め、きょうだいや両親と助け合った。伊藤ファームのイチゴは人気があり、販売所に長い行列が出来るほどに人が来る成功を収めた。
農業組合などで活躍
日系社会の発展に貢献

 60年代に「ネーチャーライプ・ベリー・グローワー」というイチゴ類を販売する協同組合に属し66〜88年に理事を務めた他、「加州ストロベリーアドバイサリー(現カリフォルニアストロベリー委員会)」の理事(81〜87年)、「オレンジ郡ファーム局」など数々の組織で活躍した。
 南加三重県人会会長(85〜89年)、南加県人会協議会会長(97年)、オレンジ郡日系協会会長(93〜95年)および名誉会長、オレンジ郡日系コーディネーティング評議会(現在のOCJAA)理事、オレンジ郡日系文化コミュニティーセンター副会長(96年)などを歴任し、非常に多忙な毎日を送った。
 さらに南加日系商工会議所副会頭、日米文化会館のアンンバサダー評議会委員、日系パイオニアセンター副会長、二世週祭実行委員会副委員長、全米日系人博物館理事、南加日系ソサエティー会員、南加農業ソサエティー会長(98年)、北米百働会副会長、池坊いけばなロサンゼルス支部、茶道表千家同門会南カリフォルニア支部、オレンジ郡仏教会など、20以上の団体組織に積極的な立場で参与し、それらの組織からさまざまな感謝賞、功労賞などを授与されている。
 2001年には勲五等瑞宝章を受章した。
 特に農業に関しての貢献は深く、日本から訪れる農業関係者の案内や支援をし、米国各地を回って日本の農業担当者に米国の農業事情を知らせる同時に、日本とのつながりも深めた。
 ファンドレイジングを通して資金面の支援にも尽力し、信頼のおける働き者として日系社会に貢献した。
 晩年は娘のキャシーさんに付き添われ、新型コロナウイルスのパンデミックが始まってからも家で新聞や雑誌を読んだりテレビを見たりして過ごし、ウォーカーや車いすで散歩や軽い運動をする日々を送っていたという。(石井文子)

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