半月前から日本入りしている。まず中国に返されるパンダの話題と北朝鮮の大陸間弾道ミサイル発射のニュースに迎えられた。緊迫感の中で愛らしいパンダの姿がミサイルの緊張を和らげてくれた。2月24日でロシアのウクライナ侵攻から1年になった。あちこちで抗議集会、追悼や平和を願う集会があった。終結を願う動きの一方で、何かきな臭さも漂ってきている雰囲気を感じる。
時季としては春。梅や桜の開花のニュースを見て、近くの梅を見に出かけた。実家の岩手はまだ雪の中、行く前に見ておかないと見られないという気持ちもあった。実家の方は梅と桜がほぼ同じ時期に咲く。池上本門寺そばの池上梅園には紅白の梅の花が咲いていて、たくさんの人だかりだった。花見はもともと梅見。梅の香と一輪一輪を目の高さで愛でることができた。硬いつぼみのそばで花びらを広げている一輪を見ながら、春だなと平和を感じる。泉谷しげるのエッセー集「キャラは自分で作る」の一節が浮かぶ。「平和ボケのどこが悪い。『戦争したくないんで、平和ボケしてます』と胸を張りゃいいじゃねえか」と。胸を張って咲いている小さな一輪が言っているような気がした。梅見も本当に久しぶりで、京都の北野天満宮の梅を見た20年くらい前以来かと思った。一斉に咲く桜と違って一輪一輪が精いっぱい、春が来たよ!と告げている姿は、けなげさと力強さを併せ持っているように思える。
思えば、どこかで何かを見るときは、ついでだった。誰かを訪ねたそこにいい景色がある、花が咲いている、建造物がある、生き物がいるなど、常に誰かの付属物だった。それがコロナ禍で会いたい人を訪ねられない、行かれないで、おのずと変わらざるを得なかった、それが別な興味を引き出してくれたということかもしれない。そして年を重ねると、自身の動きの速度が緩やかになるし、関わってきた人たちの健康問題も多くなる。当然、気持ちのあり様も変わってきて、自然に目を向けて気持ちのバランスを取るというようになってくるのかもしれない。世界の緊張がいつ危うくなるのか。だからこそ、春には春を感じたいと思う。(大石克子)