
モンロビア市議会は1月16日、全会一致で新しい公園の名称を「サトル・ツネイシ公園」と決定した。公園は地元の建設会社「ヘールコーポレーション」が寄贈したエンシノ通り1111番地の約8600平方フィートの土地を整備するもの。モンロビア市のコミュニティーサービスディレクターのティナ・チェリーさんは「市はモンロビア南部に住む人々のために緑地とレクリエーションを増やすように努めてきた。ツネイシ公園はより多くの市民に屋外でのレクリエーションを楽しむ機会を提供することになる。またモンロビアの歴史を伝える公園があることでコミュニティーはより一層強化されるだろう」と述べた。

サトル・ツネイシさんの物語は1世を体現している。ツネイシさんは1907年、19歳で四国から移住してきた。モンロビア・アーケディア・ドゥアルテ高校の校長に出会い、14年にアジア系米国人として初めて同校を卒業した。ツネイシさんは聖職に就くことを希望していたが、妻のショウさんと共に養鶏やイチゴ栽培を行った。
2人がもうけた10人の子どものうち2014年に亡くなった息子のポールさんは、生前に受けた取材で30年代のモンロビアでの生活についてこう語っている。
「われわれは父が建てた家で育った。その後父は息子たちのために2部屋の建物を作ってくれた。風呂おけのある専用小屋もあったし、冷蔵庫(アイスボックス)もあった。大恐慌の時代、父は養鶏を始めたが、ある冬の大雨でほとんどの鶏が死んでしまった。それから父はトラック農業(遠方の市場に出荷するために野菜作物などを栽培すること)を始め土地を借りられるところならどこでもルバーブやイチゴ、その他の種類の野菜を植えた。そしてモンロビアの国道66号線沿いの樫の木の下で果物や野菜を売る店を始めた」

当時、人種差別はあからさまで南部のようだった。モンロビア市の公営プールには黒人は週に1日しか入れないというのが常識だったという。ポールさんは「皆われわれ日本人をどう扱っていいか分からなかった」と振り返った。ポールさんは「サンファナンドバレーJACL(日系米国人市民同盟)」と「APIペアレンツ・アンド・フレンズ・オブ・レズビアンズ・アンド・ゲイズ(PFLAG)」のリーダーを長年務めていた。
大統領令9066号発令後、ツネイシ夫妻はモンロビアの他の日本人と共にハートマウンテン収容所に収監された。4人の息子は第2次世界大戦に従軍し2人の娘は連合軍翻訳通訳部(ATIS)に従軍した。ポールさんによるとツネイシさんは収容所からモンロビアに戻った後、「パイオニアプロジェクト」やサンゲーブルの幾つかの俳句クラブを立ち上げた。「家族はバラバラになった。われわれは生計を立てることで忙しかった。父は根っからの詩人だった」。ツネイシさんは常石射陽(ツネイシ・シセイ)という俳号で俳句を作っており、俳人として受賞歴もあるという。

モンロビア市は当初、この公園の敷地がハンティントンドライブと国道66号線のすぐ南にあることから「ルート66」と「柑橘類」をテーマにした命名を模索していたが、同市にはすでにアフリカ系米国人のジュリアス・パーカーとラテン系米国人のルシンダ・ガルシアにちなんだ公園があるため、このたび日系米国人の「サトル・ツネイシ」が選ばれた。ロイ・ナカノさんは「サトル・ツネイシ、ルシンダ・ガルシア、ジュリアン・フィッシャーは、われわれのコミュニティーを築くために多大な貢献をした普通の人々だ」と述べた。前出のチェリーさんは、「ツネイシさんと他の多くのモンロビア市の日系市民の物語を共有することは、われわれのコミュニティーにとって重要だ。第2次世界大戦中、強制収容所に収容されていた多くの日系市民が経験した不公正と犠牲を忘れることはできない」と述べた。チェリーさんによるとツネイシ公園は現在、設計段階に入っており完成は25年春を見込んでいる。26年の「ルート66」100周年に間に合う予定だという。
ツネイシさんの孫でトーレンス市の「常石保険代理店」の社長であるマーク・ツネイシさんは「ツネイシファミリーを代表して、公園の命名を実現してくれた全ての人々に謝意を表したい。初期の日系人パイオニアたちはわれわれのコミュニティーの形成に尽力した。その功績を認識し保存することがとても重要だ」と語った。(スージー・リン)
