私の叔父ジェームスはユーモアのある優しい人だった。 カリフォルニアの我が家に来るときはいつも冗談を言い、茶色の紙袋をいつも持ち歩いていた。
 私が5歳か6歳のとき、それは何かと尋ねると、「これは私のアイスクリームだよ 」と答えた。 後になって、それがウィスキーだと知った。私が覚えている限りジェームス叔父さんは、ずっと酒飲みだった。 酔って人にからむというわけではなく、ただ、いつも酔っ払っていた。 彼がなぜ酒を飲むのかはわからなかったが、酔っている状態が自分で自分をマネージできる場所として、必要だったのだと思う。
 ジェームス叔父さんが亡くなった後、母は私に叔父の話と、彼が死ぬまで抱えていた耐え難いほどの悲しみについて話してくれた。
 私の叔父、ジェームス・ブランソンは第2次世界大戦後、日本に進駐軍として駐留したアメリカ陸軍の兵士だった。 彼はX線技師として働き、誰が見ても知的で良心的な人だった。 私の母が言うには、彼は赤ん坊を扱う仕事をしていて、X線撮影のために赤ん坊を固定する方法を考え出したのだそうだ。 彼はいつも子供が好きで、いつか自分の家族を持ちたいと願っていた。
 日本駐留中、叔父は美しい日本人女性と恋に落ちた。 駐留中にその女性は妊娠した。朗報に有頂天になった叔父は、中隊長に結婚の許可を求めに行った。
 どんな理由があったにせよ、叔父の要求は却下された。 叔父は基地に閉じこめられ、まだ見ぬ我が子に別れを告げることさえ禁じられた。
 叔父は自分の意思に反して、すぐにアメリカに送り返された。 間もなく酒に溺れ、アルコール依存症になった。 日本に戻ることはなかった。
 そして、ジェームス叔父さんは肝硬変で若くして亡くなった。 私の知る限り、彼は結婚もせず、アメリカで子供をもうけることもなかった。
 私は、日本に残されたジェームス叔父さんの「家族」が、叔父が彼らをいかに深く愛していたということを知ってほしいと願うばかりだ。叔父は彼らと一緒にいたかったし、自ら進んで離れようとはしなかった。 第二次世界大戦後の占領下で、日本人女性が黒人の子供を産み育てることがどれほど大変なことであったか、私には想像もできない。
 40年ほど前、京都で私が研究員をしていたとき、テレビで日本の音楽隊を見たことがある。その中のドラマーは他の人より明らかに色黒で、カールした髪だった。
 頭の片隅で、この人は私のいとこかもしれないと思った。従兄弟と同じくらいの年齢に見えた。
 第2次世界大戦後、占領下の日本で、どれだけの女性や子供たちが置き去りにされたのかは知らないが、その全員がすすんで置き去りにされたわけではないことを知って、少しでも慰めになればと思う。
 もしこれを読んでいる人がそのような子孫の一人であるなら、あなたのことに思いを馳せている人々がいることを知っておいてほしい。 あなたの父親は、あなたと母親を愛していて、子供と離れたことはとても辛かったのだから。
(ジェームス・コール)

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