「智子さん、1年間は磁針のネタに困りませんね」と友人が笑う。今年の夏休みの旅行で私は、確かに1年分と言えるほどの大失敗をした。欧州3カ国8日の旅の初日パリで、手のひらに残ったスマホ以外の全ての貴重品をすり盗られてしまったのだ。旅券もグリーンカードもだから、もう大変。会社をはじめ多くの人に迷惑をかけたので1年間もネタにするわけにはいかないが、1回ぐらいは書いてもいいだろうか。
回復への道のりは盗難届け、日本国旅券の再発行、それから米国に戻る許可申請だが、旅券でつまずいた。日本から戸籍謄本の原本が必要だという。「は?原本?」。これは日本の友人を頼るしかない。加えて発行に1週間かかるというから、予定通りに帰れないことは明らか。休暇後はパリから仕事ができるようにと、今度は自宅のルームメートにお願いして仕事のソフトが詰まったマックブックをパリまで送ってもらった。送料と関税で目まいがするほど高くついたが、仕方がない。
さて、EU(正しくはシュンゲン圏)内なら、電車移動は「新幹線で日本国内を行く感じ」と聞いていたので、旅行は継続した。フランスの友人は「パスポートなしでの移動はやめたほうが…」と曇り顔だったが、そこは譲れない。アムステルダム、ケルン、フランクフルト、そして夢だったローレライの音楽フェスに行き、パリに戻った後は友人宅からリモートで仕事をし、粛々と毎日を過ごした。
五輪開始前に帰国するはずが始まってしまい、「パリって今雨が降っているんですか?」とLAから同僚が尋ねてきた。開会式を見ているらしい。「はい、しとしと降ってます」(そして私の心の中にも…)。
パリの生活は素敵なはずなのに、家に帰りたくて仕方がなかった。ベッドに寝転がって見える青空が、監獄の窓から見える空に思えた。外出すれば、かばんの中に貴重品があるかとドキっとして不安になった。「うわぁ、これってトラウマになっているのかも」。
ホーム・スイート・ホーム。帰ってくることができて、今は幸せだ。それにしてもひとたび旅券をなくすと、自分のIDの証明が大変になることは身に染みた。「だから体にチップを埋め込んだらいいと、心底思ったのよ」と力説したら、友人が「北欧ではもうやっているらしいですよ」と言うではないか。それはいい。それなら、私のようなうつけ者が旅券をなくす心配も要らないし、戸籍謄本の「原本」を取り寄せる必要もない。(長井智子)
