近所のフィットネスクラブに、妻と週に1度通っている。インストラクターとの個人セッションを終え、バイクをこぎ、プールで体を動かし、最後はサウナとジャクジーで体をほぐす。2時間は運動の時間であると同時に、私にとっては「観察」の時間でもある。
ここは、まるでアメリカという国を映す小さな舞台のようだ。白人の老紳士は黙々とトレッドミルを踏み、黒人の若者は音楽に身を委ね、ラティーノの女性たちは水中で軽やかに笑う。アジア系の男性は少し距離を置き、周囲を静かに観察している。入れ墨は反抗の印ではなく、人生の注釈のように肌に刻まれている。
ここには共通の言語も、共通の物語もない。あるのは、鍛えられる身体と、老いていく身体、そのどちらにもあらがおうとする意志だけがある。日本の温泉に漂う暗黙の秩序や遠慮はここにはなく、身体そのものが名刺であり、自己表現となる。
内部でも外部でもなく、この空間に浮かびながら、共存はあっても同調はない。それでもこの場所には不思議な安心感がある。政治も宗教もロッカーに預けられ、残るのは「今の身体」だけだ。社会の分断や緊張も、この2時間の中では静かに中和されているように見える。
週に1度、汗を流し、息を整えながら、目の前の光景を一つ一つ確かめる。私は最も日常的なアメリカと向き合い、日本人である自分を静かに確かめている。この近所のジムは、私にとってはアメリカの縮図であり、同時にディアスポラとして生きる自分自身を映す鏡でもある。(高濱 賛)

