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満身創痍(そうい)の東京五輪

 オリンピックの案内放送は、開催国の言語と英語、それにフランス語で行われる。フランス語を第2外国語で学んだので、ふふふ!と、ほくそ笑みたいところだが、カリフォルニアの生活でフランス語を話す機会は皆無。ロサンゼルスのガーセッティー市長やソリース郡政官が、英語のスピーチのあとにスペイン語でぺらぺら話しだすと「かっこいいなぁ」と思う。言語に対するあこがれやコンプレックスを抱えていると自己分析する。<!–more–> 初めて生の英語を聞いたのは、1964年の東京五輪に関わるものだったと記憶している。国内のどこかの米軍基地に駐屯していた「外人さん」が、五輪を観戦するために東京に出てきて、祖父母が経営していた蒲田の旅館に泊まった。生粋の「江戸前」だった祖父母はさぞや慌てたことだろう。経理畑とはいえ曲がりなりにも商社に勤めていた父が「英語が得意だろう」とかり出され、その横に幼い私がいた。それが私の第三種接近遭遇。外国語をしゃべる宇宙人との「未知との遭遇」だ。 当時の五輪は、少なくとも東京の内側にいた者にとっては、東京を海外に発信するというよりも、外国が東京に向かって突進してくるイベントだった。 祖父母の旅館の壁に貼られた大きな五輪のポスターの前で、直立不動の弟と私が撮影された記念写真。幼すぎて競技のことは何一つ覚えていないが、とにかく家族中が浮かれていた。その浮かれポンチは1970年の大阪万博にまで続いた。 オリンピックも開始当初の頃は、世界万国博覧会の付属で行われていたスポーツ競技だったというではないか。もともとメダルの数や記録にあまり(あまりに?)関心のない私は、オリンピックの文化交流面を高く買っていたのに、2020年の東京五輪ではその部分が新型コロナに台無しにされてしまい、いまや1カ所で行う集中世界選手権のようになってしまったことは残念でたまらない。まるで雨で中止になった運動会のお弁当を教室で食べるような状況? でも、それでも普通の授業の日よりは楽しかったよね。 満身創痍でもオリンピックをやり遂げようとする姿に、せめてものエールを送りたい。がんばれトウキョウ! 16日、東京では梅雨が明けたそうだ。【長井智子】 磁針