ウーマン・オブ・ザ・イヤーの表彰式。左からジャン・ペリー市議、阿岸さん、相原さん、荒谷さん、松本さん、宮田さん、キタLA支部長生田・南加日系婦人会会長
 南加の日系社会において社会奉仕で功績を挙げた女性を顕彰する2013年度「ウーマン・オブ・ザ・イヤー」賞の授賞式が5日、モンテベロのクワイエット・キャノンで開かれた。5人の受賞者は、受賞を励みに、より一層の社会貢献を誓った。同賞は、日系市民協会(JACL)ロサンゼルス・ダウンタウン支部と南加日系婦人会が選出し、1963年に始まり今年で50周年を迎えた。【永田潤、写真も】
 受賞者は、阿岸明子さん、相原クリスさん、荒谷サカエさん、松本・まさこ・マエさん、宮田・リリー・よしこさん。5人は、それぞれの得意分野で実力を発揮し、所属する各団体を主宰したり、要職に就くなど、男勝りのスーパーウーマンばかりだ。
 受賞は、せんえつと、日本人女性らしく控えめだが、各団体の代表としての表彰に胸を張って授賞式に臨んだ。410人に上る参加者の多さが、人望の厚さを物語り、所属団体の代表が、各受賞者の経歴や逸話などを紹介するごとに、万雷の拍手で祝福を受けた。
 JACLのLA支部のジョージ・キタ支部長が、開会のあいさつに立った。表彰式が今年で50周年記念を迎えたことを強調。第1回の1963年は、ケネディー大統領の暗殺やマーチン・ルーサー・キング牧師の有名な演説が行われるなど、米国の社会が不安定な情勢であったとし「その頃に日系の女性たちは、市民権の獲得のために社会に尽力してくれた」と敬意を表した。「これらパイオニア女性の志は、社会の発展と日本文化を継承する今年の受賞者5人にまで脈々と受け継がれている」と力説した。
 南加日系婦人会の生田博子会長は、受賞者5人の功績について「家庭を守り子女を育成し、日本の伝統文化を普及、継承し、広く社会において数々の奉仕をし、献身的に人間社会の根底を支えた。いつの時代でも女性ならではの忍耐と実行力を感じる。日系社会はもとより、広く日米親善にも貢献している」と賞賛し、ますますの活躍を祈念した。同賞制定50周年記念については、160余人が受賞しているとし「母をたたえ、女性を顕彰するこの伝統ある行事が末永く次世代へと引き継いでいかれることを願う」と話し、協力を求めた。
 受賞者を代表して相原さんが、謝辞を述べた。「表彰はとても光栄で、社会のために尽くしたことが認められて満足している。この喜びを社会全体で分かち合いたい」。この日の参加者に向け「家族と友人、同僚のすべての人に感謝したい。みなさんのおかげで、われわれが活動でき、コミュニティーに尽くすことができた」と語った。
 キタさんは閉会の辞で「5人の受賞者それぞれは、多くの違った経歴を持ち、人生経験が豊富で、みなさんの献身は他の人々の生活の質を高めた。情熱を持って行動し、多大な社会貢献に感謝したい」と締めくくった。

阿岸明子さん
 北海道札幌市生まれ。同市立中学で英語の教師として1961年から5年間教べんをとった。フルブライト奨学金を得て、67年に渡米した。69年、カリフォルニア州立大サクラメント校で修士号を取得。76年、同じくフルブライト奨学生としてUCLAで比較言語学教育学の博士号取得した。
 73年にUCLAで教べんをとりながら、「クリエーティブ・エンタープライズ・エンタープライズ・インターナショナル」社を設立した。ハリウッドで教育映画、広告、エンターテインメント業界でプロデューサーとして国際的な映像制作業務に従事し、多くの世界の著名人やセレブリティー―ローリング・ストーンズ、スピルバーグ、カール・ルイス、ブルック・シールズ、アーノルド・パーマーなどを起用。長年にわたり数多くの話題作を手掛け、教育、オリンピックを含むスポーツ・文化交流のドキュメンタリー作品でも受賞作多数。
 90年、「World Children’s Baseball Fair(WCBF)」財団をハンク・アーロン、王貞治両氏とともに設立し、財団マネジャーとして活動する。毎年夏に大会を開き、日米を中心に世界各国の300人余の少年、少女を招き、今年で23回目を迎える。これまでの参加者の総計は5000人を超す。
 98年、米国で日本語教育に携わる教師、または大学院生を援助、育成することを目的として、「オーロラ日本語奨学金基金」を設立。奨学金プログラムを中心に活動し、日本の伝統、歴史、学術研究や文化交流などを通じて日米の親善を深める活動に努めている。これまでに50人の奨学生を日本に送り出した。教育者ばかりでなく、日本で自分のライフワークとしての夢を実現したい米国市民を対象にチャレンジグラント奨学金を与えている。さらに全米の高校生を対象に日本語スピーチコンテストを行い、今年で10周年を迎える。毎年秋には、表彰晩餐ガラパーティーを開き、さだまさしなどトップアーティストを迎え、ベネフィットコンサートを開いている。
 今後も文化交流と教育の場で、日米の懸け橋として、日系コミュニティーとともにに頑張りたいと願っている。
 レイモンドさんとジュンさんの2人の息子を持つ。

相原クリスさん
 25年以上にわたり非営利団体で働いている。特に南加日系社会における日本文化の啓蒙に力を注ぐとともにその他の米国人社会にも日本文化の紹介を行ってきた。これらの活動は、日系3世として自身の信念である米国社会の中の日系社会で継承されている日本や日系人の文化、少数民族族間に存在する特有の文化、芸術の真髄を西洋文化を主とする人々と共有することが米国文化の発展にとって重要であるという考えに基づいている。
 これまでの活動は多岐にわたっている。日米文化会館において日系社会向けプログラムの担当マネジャーとして盆、正月、子供の日の各プログラムを推進し、その他幅広い分野で日本文化の振興につとめた。日系社会に対する政策局長、2007年から11年まで日米文化会館館長として運営面で貢献した。特筆すべきは、ジェームズ・アーバイン日本庭園の改装を行ったこと。小東京協議会会長、企画並びに文化保持委員会委員長、交通委員会委員長としては、予定されている2番街地下鉄工事が及ぼすさまざまな障害から小東京のビジネスを守るために交通当局と交渉にあたった。小東京開発官庁のコミュニティー諮問委員会委員としても活躍した。
 日系社会におけるリーダーシップを評価されて日本の外務省主催の日系人訪日プログラムの1人として2001年日本に招待された。
 長年、洗心仏教会の会員であり2007年から09年まで会長を務めた。また、キンナラ舞楽・雅楽の会員でもある。
 南カリフォルニアで生まれ、カリフォルニア大学アーバイン校で学び、カリフォルニア州立大ロングビーチ校で歴史学を専攻し、学士号を取得した。
 50年以上小東京でビジネスを行っている相原保険のダグラス相原さん(現社長)と結婚、4人の子ども―ブレアさん、ガレットさん、スティーブンさん、リキさんとともにトーレンスで暮らしている。

荒谷サカエさん
 荒谷さんは、父井上エイジロウさん、母カツさんの間に生まれた。一人の妹ビッキー・ナカバヤシさんを持つ。ミネソタ州立大学で学んだ。今年2月に他界したジョージ荒谷さんと結婚した。2人の娘、ドナ・キーさんと、リンダ荒谷さんの2人の娘を育てた。また孫7人とひ孫4人を持つ。
 1940―41年、日系市民協会(JCLA)のガーデナ支部で書記を務めていたが、日米の開戦と同時に、すべての日本人に対して西沿岸から立ち退き命令が出た時、大混乱が起き、サカエさん特英語が分からない1世たちに立ち退き命令を日本語で説明して援助した。
 53年、国祭ホステス委員会の委員を務め、モンテベロの日系婦人クラブの副会長になった。同委員会の目的は主として慈善事業だった。54年、澤田みきさんが訪米した時に、日本の大磯にあるエリザベス・サンダースホームからブラジルに移った混血児を乗せた船がサンペドロに寄港した時、国際フェアープレー委員会のホストとして地元の高校のジムで集めた古い靴を木の樽に詰めて贈り届けた。
 54年はガールスカウトのブラウになり、57年にはガールスカウトのリーダーを務めた。また57年から61まで日系社会奉仕団体のリーダーを務めた。60年にはロサンゼルス国際団体の会員となり、恵まれない人々を助けるために奉仕活動を行った。62年には日系交響楽団協会に入会し、婦人部、青少年部、奨学金部などの設立を援助した。
 62年からの20年間、日米協会の副会長を務め、65年にはビクター・カーター賞を授与された。その他にも数多くの団体で活躍した。
 日系交響楽団を創設。ロサンゼルス―名古屋姉妹都市委員会や敬老シニアインクの理事。二世オブ・ザ・イヤー選出。ロサンゼルス市長の行政委員会理事就任。二世婦人ゴルフクラブを創設し初代会長に就任。ロサンゼルス郡美術館の東洋美術部委員会会員。南加日系婦人会会長。日米婦人会会長。シテイ・ビュー病院理事。日米文化会館理事名誉会員。カリフォルニア住友銀行唯一の女性理事。二世週グランド・マーシャル。華道教授会顧問。日米協会ギルドを創設。ロサンゼルスミュージック・センターのブルー・リボン会員。日米文化会館のパシフィック・パイオニア賞受賞と女性殊勲賞を受賞。

松本・マサコ・マエさん
 1918年ワシントン州オバーン市にあった福田家の農場で、11人の兄弟の末っ子として生まれた。家族は14年から29年までその農場を所有していたが、その後、ニーリ家に売却した。今では国立博物館がそこに建てられている。
 農場を手放した後、家族はシアトルに移り住んだが、一番上の姉と兄はロサンゼルスへ、そして他の兄や姉はカリフォルニアのあちこちに移住した。妹はシアトルに残った。
 数年後、父親は日本に帰国することになったが、マエさんは中学の卒業まで、数年母とともにシアトルに残り、卒業と同時に広島に帰った。マエさんは安田女学院に入学し39年に卒業、40年に結婚し松本姓になり帰米、ロサンゼルスに新居を構えた。
 42年、松本一家はアーカンソー州ジェロームの強制収容所に移送された。息子パトリックは収容所内で生まれた。戦後、松本一家はクエーカー教会の援助でオハイヨ州コロンバスに移り、数年間を過ごした。その後、家族はロサンゼルスに戻った。マエさんは52年ビルさんと再婚して55年に娘が誕生した。
 マエさんは家族を持ってから好んでボランティアの仕事をするようになった。合同教会や敬老引退者ホーム、敬老看護ホームで人々の生活を助けたり、話し相手になったりする。家族からは「おばあさんは、自分よりも年下の人たちを助けているのね」と、よく言われるという。それもそのはず。今年で94歳になるからである。
 20年以上も合同教会の会員である。小東京タワーズに住んでから、高齢者昼食会で奉仕するようになりマネジャーを助けている。
 松本さんはボランティアについてたずねられるとこうに話す。「ボランティアの仕事をすることで、体と頭の健康を保つことができる。仕事がとても楽しい。人を助けることが楽しみです」

宮田・リリー・よしこさん
 4人兄弟の3女としてシアトルで生まれた。両親は幼い頃から3人の娘に音楽を教えることを理想とし、ピアノの教師を家に招いて習わせた。しかし、宮田さんはピアノの勉強に興味がなく先生が帰るまで、たびたび庭のリンゴの木の後ろに隠れていたという。父母はまた、子どもにバイオリンを習わせようとしたが、これも失敗に終わった。
 しかし成長する過程で、宮田さんは学校で音楽鑑賞のクラスをとり、子どもの時に音楽の勉強を疎かにしたことで、どんなに損をしたかを知った。
 このような後悔の思いを自分の子どもに味わってほしくないと、音楽に興味を持つ子どもに育てるために英才教育を施した。幼い娘は若い人で構成するオーケストラでバイオリンの演奏者として採用された。そこで、宮田さんはマザークラブを結成し応援した。同クラブは後に発展してロサンゼルス日系フィルハーモニック演奏団となり1984、85年の2年間会長を務め、また幼少者向けプログラムと奨学金プログラムのディレクターの1人を2年間務めた。
 47年間で、アジアアメリカ交響楽団は3回、団体名が変わった。この間、宮田さんは3人の音楽ディレクターと9人の会長を支えた。92年にはアジアアメリカ交響楽団の設立者の1人として2年間会長を務めた。また青少年教育基金の創始者であり、音楽プログラムや演奏を競うプログラムなどを設立し援助した。91年から95年まで協会の理事を務め、コミュニティー関係部の主任として活躍。99年、同協会から青少年プログラムに対する貢献をたたえられ、ブラボー賞を授与された。2005年からは、ケイ坂口青少年奨学金の委員長の1人を務めている。11年アジアアメリカ交響楽団の50周年にあたり、協会の共同設立者とともに2度目のブラボー賞を授与された。
 エンジニアだったジョンさんと1955年ロサンゼルスで結婚して3人の成長した子供を持つ。夫は今年2月に他界した。日本と米国で教育を受けたため、日英両語が堪能。「両方の文化を理解出来ることは、日系社会のみならずこれまで関係を持ったさまざまな団体での貢献に役立ったと思います」

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