半田氏は1942年東京生まれ。慶応大卒。伊藤忠商事に入社し72年渡米、航空機部マネジャーとして5年間駐在した。東京本社に戻り5年間勤務した後、退職。ゼロからの起業を志し、81年に家族を連れ再渡米した。パサデナに個人商社を設立し、全米50州ほぼすべてを回って販路を開拓した。2011年に引退するまで、日本の航空業界を相手に取引した。
日本文化に造詣が深く、普及に取り組み、和太鼓、鼓、書道、茶道の他、講談師としては「半田半太」を名乗り高座に上る。多趣味で、歴史関係の読書、ゴルフ、スキーに興じ、旅行は世界約40カ国を回った。
表彰式では、総領事が表彰状を授与して賛辞を呈し、社会奉仕における盟友、入江健二さんと小山信吉さんは祝辞を贈った。各人が半田さんの各分野での功績を称賛し、さらなる活躍に期待を寄せた。
半田さんとともに命の電話を支える入江さんは、「『ボランティアの神様』と呼べるほど、日系社会に尽くしている」と絶讃。奉仕以外の横顔を紹介しては、羅府新報のコラムニストとして健筆を振るい、話術は巧みで、ユーモアのセンスを持ち、忍者のよう鍛錬する―という多芸多才ぶりを「文武両道」と表現。慈善家としては「エリート商社マンがなぜ、社会的弱者に対し優しい気持ちを持っているのか」と自問しながら「疲労が蓄積し、病気を押して激痛の中でも務めを果たした」と明かし、医師の立場から「決して鉄人ではないので、無理をしないでほしい」と思いやった。
小山さんは、東日本大震災で故郷福島の惨状に心を傷めた。被災地救援で、震災発生直後から陣頭指揮を執った半田さんの迅速な対応を評価し「日系の他の団体に先駆けて募金運動に立ち上がったのが南加日商だった。半田さんが会頭を務めたためで、特別会合を開いてくれた」と感謝に堪えない。「半田さんは、人を思いやる心を持っている傑出した掛け替えのないリーダーだ」と賛美した。
半田さんが、謝辞を述べ「多くの人と付き合って、教えられ、導かれ、生かされている。曲がりなりにも何とかやってこられたのは、大勢の人のお陰」と強調。また、「家内が支えてくれたから」と、俊子夫人の内助の功を称し「普段は面と向かっては言えない」と照れながら「ありがとう」と叫ぶと、会場から大きな拍手が起こった。今後の奉仕活動については「背伸びせずに、自分の身の丈に合わせてコツコツと、命の終わる時まで続けたい。それが念願で、微力だが少しでも地域社会の役に立てるように努めたい」と抱負を述べた。【永田潤、写真も】