「騎士団長殺し」
 村上春樹の新作「騎士団長殺し」(新潮社)を読み終えた。奇妙な題名の小説だ。騎士団長とは中世のCommendatoreの訳。十字軍時に騎士修道会や王侯貴族が設立した騎士団の管区長のことだ。
 モーツアルトのオペラ「ドン・ジョヴァンニ」に一人の騎士団長が登場する。
 最愛の娘を弄(もてあそ)んだ女たらしのジョヴァンニを殺そうとする。が、返り討ちにあってしまう。死後、亡霊となって現れ、ジョヴァンニを刺し殺す、あの騎士団長だ。
 ストーリーの縦糸になっているのは、オペラの登場人物すべてを飛鳥時代の大和人(やまとびと)に「変身」させ、「騎士団長殺し」の場面を再現させた老画家の若き日の日本絵画だ。
 その画家が去った空き家には30代の画家(物語の語り手)が移り住む。「語り手」、ITで儲けた中年男、思春期の美少女、その叔母である美熟女、それに日本画から飛び出した騎士団長(の魂)とが織りなすミステリアスな世界だ。
 横糸は、「忘れがたい時空(歴史)」だ。
 老画家がウィーン留学中に巻き込まれた「クリスタル・ナハト」(真珠の夜)、画家の弟が巻き込まれた「南京虐殺事件」、そして東日本大震災発生9カ月前の東北地方で「語り手」が過ごした(私的な)「時」と(公的な)「時間」。
 村上さんは、インタビュー(朝日新聞国際版4月2日付)でこう述べている。
 「歴史は集合的記億だから、過去のものとして忘れたり、作り替えたりすることは間違いだ」
 登場人物の一人がさり気なく言った科白(せりふ)が脳裏に残って離れない。〈離婚したい〉と言って「語り手」の下を去り、その後、戻ってきた妻の言葉だ。妻は子を宿していた。
 「私の人生で起こっていることのほとんどすべては、私とは関係のない場所で勝手にきめられているのかもしれない。私は自由意志で生きているようなのに、結局のところ、大事なことは何ひとつ選んでないのかもしれない」
 自由意志で「終の棲家」を選んだはずの、この異邦人にもずっしりと響く一言だ。【高濱 賛】

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