福島出身の坂本さんは明治学院大学社会学部で社会福祉を学んだ。卒業後、東京都内の神経内科で、ケースワーカーとして患者をケアした。1976年に渡米し、78年からロサンゼルスで最初に設立されたアジア系向けの社会福祉サービス団体で、ケースマネジャーとして1年半働き実績を積んだ。
80年に設立されたリトル東京サービスセンター(LTSC)に最初のスタッフとして参加。心理カウンセラーの資格を取得し、日英バイリンガルのソーシャルワーカーとしてキャリアをスタートさせた。英語が不得手な1世の高齢者や新1世に対して、福祉が受けられるようサポートを行った。
文化と言語を考慮に入れた数々のプログラムを発展させたほか、公的機関からの資金調達、他の団体との協力関係強化、各分野の専門家との連携なども進め、LTSCが多種多様なサービス・プログラムを提供できるようになる礎を築いた。96年に同センターの初代社会福祉部長に就任し、多くのソーシャルワーカーを監督、育成に努めた。
退職後は、リーダーシップ、メンターシップやセルフケアなどを目的とした「さかもと塾」を発足させ、現在、未来の地域社会のウエルネスにつなげる活動している。36年間にわたり日系社会の精神衛生および社会福祉の発
坂本さんが謝辞を述べ「退職して3年が経ったLTSCを抜きにして話はできない」と切り出した。その活動では「時間と物資、寄付金などを提供してくれた多くの人々や団体の援助に感謝したい」と述べた。自身の業績については「コラボレーターであるボランティア、指導者、友人、同僚そして家族からの支援のたまもの」と表現した。
専門のソーシャルワークの分野については「地域社会にあるリソースや強力なネットワークを賢く、そして効果的に利用することが必須である」とし、地域社会の支援団体やその他さまざまな団体とのコラボレーションの重要性を説いた。多くの団体の中で特に深く関わった主要13の団体名を列挙し「これらは、パートナーシップを象徴していて、この受章は私だけにではなく、これまで支えてくださった人々や諸団体と共有したい」と、代表の一人
今年2月に長兄が他界したことを明かした。家族は貧しい農家で、父親は坂本さんが3歳の時に5人の子どもを残して亡くなったという。家族を養った長兄が大学進学を諦め、高校以上の教育は重要ではない時代だったことから、母は坂本さんの大学進学を反対したが「東京に出て働いてお金を貯めて大学に行きたい」と頼み込んだ。やっとのことで認めてもらい、ソーシャルワーカーへの道が開かれることになる。
長兄は自身の家族6人の扶養に加え、坂本さんに「大切なチャンスを逃してはならない」と、励まして夢の実現をサポートし続けたといい「勇気を与えてくれた長兄のサポートがなければ、今日私はこうして皆さんの前に立っていないと思う」と感慨深げに述べ、叙勲を天国の恩人に捧げた。
多くの社会的弱者とその関係する人々を救った坂本さん。その中の一人の馬上真理子さん(障害者を持つ日本語を話す親の会元会長)が祝辞を贈った。
馬上さんは、知的・発達障害者のための加州の集中プログラムで学び専門的知識を身に着けた後に当時のLTSC所長のビル・ワタナベさんに相談して、障害者の親の会の結成の支援を頼んだ。「もちろんヘルプするよ」と快諾され「LTSCとビルさん、安子さんにはずっとお世話になってきた」と恩に着る。励ましあった親たちの会は「今年25年周年を迎えて、素晴らしい会に発展した」と胸を張った。「ビルさんと安子さんが始めたLTSCのレガシーは、ずっと伝えていかなければならない」と力を込めた。
伝達式に参加したLTSC創設者のビル・ワタナベさんは、坂本さんが日本語を母国語とする人々のためのソーシャルワーカーの草分けであることを強調する。坂本さんに初めて会ったのは1978年で、翌年にLTSCを創設し、80年から本格的な活動に乗り出したという。