古賀野々香さんが昨年半ばから1年間ワシントン州リッチランドのハイスクールに留学した際、その学校のロゴに原爆のキノコ雲が使われているのを目の当たりにしショックを受けた。長崎の原爆に使われたプラトニウムを製造した街リッチランド。終戦を早め多くの米兵の命を救った原爆が製造されたことを誇りとするリッチランドのハイスクールの学生達に、古賀さんの視点からのビデオを作制し公開した。
 古賀さんは九州福岡県の出身で、その日空が晴れていれば原爆が投下された町小倉で生まれた。予定が変更されなければ、今の自分がこうして存在しえなかったことも語り、ビデオはインターネットでも広まった。リッチランドはもとよりアメリカ中でいろいろなメディアが取り上げ日本でも報道された。
 大きな称賛を与えられて然るべき古賀さんだが、同様にビデオの制作を手伝ったホームステイ先の家族、公開の機会を与えてくれた学校の先生、そしてビデオを見た後にそれまでとは違った捉え方を知り、それを提示した古賀さんへの感謝と勇気を称賛した同校の学生達の態度にも心を動かされる。
 戦争という日常を大きく外れた世界では残虐非道な行為が多々おこり、戦争が終われば被害者は相手を恨み、与えた側はその行為の正当性と責任の所在を探る。だが後世に生まれた戦争を知らない世代には事の終始は把握できても、当事者の苦悩を共有するのは難しい。
 原爆投下だけに限ってもそれぞれに違った捉え方がある。『終戦を早め、多くのアメリカ人兵士の犠牲を防いだ』『アメリカは投下以前に日本の降伏を察知していたので、投下の正当化はできない』『戦闘地の兵士ではなく一般市民の殺りくだった』等双方の視点、意見の食い違いにうなずくのも否定するのも難しい。
 ただ古賀さんのように勇気を持って語りかけていけば、壮絶な戦争体験をされた方達のストーリーではなくても、タイプの違った語り部になり得るだろう。留学先のリッチランドで、原爆への認識の違いに目を向けさせるきっかけを作った古賀さんの行動の余波はいま、リッチランドを越えて全米に広がっていく。【清水一路】

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