マンザナー強制収容所に到着した家族。全米10カ所の強制収容所はいずれも人里離れた荒野や湿地など人が暮らすには厳しい環境に作られた。1942-1945年撮影(Photo by Jack Iwata. Japanese American National Museum, gift of Jack and Peggy Iwata)

 来年2022年5月、全米日系人博物館(Japanese American National Museum、JANM)は、開館から30周年を迎える。日系米国人の歴史を収集し、保存し、伝える初めての博物館として、1992年5月に開館した。私は同館に日本語渉外担当として勤務している。全米日系人博物館はコミュニティーの中からその歴史の担い手自身によって作られた非営利の博物館であり、運営は博物館会員の会費、コミュニティー内外からの寄附に支えられている。
 日系米国人の歴史はおよそ150年にわたる。2019年の国勢調査によれば米国の日系人人口は、推定約150万人に上る。太平洋戦争が始まる直前の1940年には、当時は準州であったハワイを含む米国全土の日系人人口は約32万6千人であったのを考えると、日系人人口は格段に増えていると言っていい。異人種間の結婚が禁じられていた戦前とは異なり、今その150万人の半数近くが他の人種やエスニックとのミックスであり、戦前の移民の流れをくむ日系米国人だけでなく、戦後移民や長期滞在の日本人、また日本以外の国から米国に移住してきた日系人、さらにはそうしたさまざまな背景を複数持つ人もいて、日系米国人のコミュニティーは豊かな多様性に満ちている。
 しかし150年にわたってこの国の一員としてコミュニティーを築き、バックグラウンドやその文化、社会的立場がこれだけ多様になっても、いまだに日系人に対する画一的なステレオタイプはしつこく残っている。そのステレオタイプの一つは「永遠のよそ者」というものであり、もう一つは「モデル・マイノリティー」である。これらのステレオタイプは日系米国人だけではなく、広くアジア系米国人全体に対して押し付けられてもいて、パンデミックとともに急増したアジア系へのヘイトとも切り離せない問題である。

「帰化不能外国人」から続く「よそ者」のステレオタイプ

「カリフォルニアをジャップから救おう」と外国人土地法への賛同を促す看板。ジャップとは日系人・日本人の蔑称である。1920年代撮影(Japanese American National Museum, gift of Yutaka Shinohara)

 そもそもアジア系に対する「永遠のよそ者」というレッテルは、日系移民が到着するはるか前、アメリカ建国の頃から始まっていた。1790年の帰化法は、米国市民権を申請できる者を自由な「白人」のみに限定した。「米国人であること」とは「白人であること」であったのである。1870年にはその範囲が「アフリカ生まれの外国人とその子孫」にも広げられたが、白人でも黒人でもないアジア系は、州によってはまれにそのどちらかと見なされることもあったものの、基本的には「移民の国アメリカ」の埒外(らちがい)に置かれることとなった。
 そして1882年、中国からの労働移民の入国を禁止するいわゆる「排華移民法」が制定される。この排華移民法はそれまで自由移民の原則を維持していた米国で初めて、特定の国を対象に移民を制限しただけではなく、米国人になることができない「帰化不能外国人」という「人種」を生み出した。これは中国人だけを対象としたものではなく、その後移民の数が増えていくにつれて、日本人を含めた他のアジア系にも拡大されていくことになる。
 アジア系を「『米国人』とは異なる他者」と見なすまなざしは、やがて国別の移民割当数を設けると同時に帰化不能外国人の移民を禁じた1924年の移民法へとつながっていく。そして、これらの法が撤廃された後も現在にいたるまで米国市民であるかどうかにかかわらず「永遠のよそ者」というステレオタイプとしてアジア系に向けられていくことになる。
 厄介なことに、こうしたステレオタイプはアジア系自身が内面化している場合もある。日本においても米国においても、多くの場合、私たちが触れる米国の歴史や文化はヨーロッパ中心主義のものであり、アジア系や他のマイノリティーの視点からの歴史や文化に触れる機会は極めて限られていることから、こうしたステレオタイプを無意識に抱えていることがあるのである。

日本からの移民と排日運動

 日本から米国への最初の集団労働移民は、1868年のハワイ王国への元年者の渡航であった。彼らが直面したのは極めて劣悪な労働環境であり、日本政府は日本人移民に貧しい労働移民のイメージが付くことを嫌ってその後20年近く国外への労働移民を禁止し、北海道など「国内」での移民を奨励した。しかし1880年代の不況の中で農村の人口を国外に送出し外貨を獲得する目的から日本政府は労働移民を認可し、1885年にハワイ王国へ「官約移民」の送り出しが始まることになった。排華移民法が施行された米国では、中国系移民に代わる使いやすい安価な労働力が求められていた。
 1894年にハワイ王国が崩壊するまでに、約2万9千人が契約労働者としてハワイに渡り、サトウキビ農園などでの労働に従事した。その頃から日本から米国本土への渡航も増加していく。出稼ぎだけでなく、白人家庭に住み込みで働き学校に通うスクールボーイとして、また徴兵を逃れる目的や、先に移住した家族による呼び寄せによって、1924年までにハワイに約20万人が、本土には約18万人が渡米した。移民というと永住を目的に移住したものだと思われがちだが、当初は出稼ぎが主でありその多くが帰国している。また移民は国を出たら出たきりではなく出身国へ帰省することもあれば、他国へと移民しなおすこともあり、さらには当初永住目的でなくとも、帰ろうか残ろうかと迷いを抱えているうちに子供ができるなどして残る選択肢をした者、また戦争が起きて帰れなくなった者もいるのである。

戦前の「二世週祭」のパレードの様子。強制立ち退き・収容により戦時中は二世週祭開催も中断された。1938年撮影(Photo by Jack Iwata. Japanese American National Museum, gift of Jack and Peggy Iwata)

 そのようにして当初「使いやすい安価な労働力」と見なしていた者らが、米国で人口を増しコミュニティーを築き始めると、それに対して排斥運動が始まっていく。すでに中国系への排斥の歴史がありアジア系差別の素地のある西海岸ではそれは早々に組織化されて行われていった。特に日露戦争に日本が勝利すると「黄禍論」が言われ、1906年の大地震後のサンフランシスコでは、日本人生徒を公立学校から隔離する動きが起こり、それに対応する形で1907年から1908年に一連の紳士協定が結ばれ、日本からの移民は家族の呼び寄せに限られると共に、1907年には大統領令によってハワイから本土への転航が禁止される。
 続いて、1913年にはカリフォルニア州で帰化不能外国人の土地の購入および3年以上の賃貸を禁止する法律が制定され、その後14州でも同様の法律が成立する。職の選択肢が限られており、多くが農業に従事していた日系人コミュニティーにとって土地所有の選択肢がなくなることは大きな打撃を与えるものであった。また排日運動は、アメリカにおける日本語学校にも及び、ハワイ、そしてカリフォルニアで日本語教育を制限する法律が制定されていった。
 さらに1922年には日本人の帰化権を争った小沢孝雄対合衆国訴訟において、日本人もまた中国人同様に「帰化不能外国人」であることが改めて確認される。その後1924年には改正移民法が成立。帰化不能外国人の労働移民は禁止され、日本からの労働移民は非合法となる。
 なおこの1924年の移民法は帰化不能外国人の移民を禁止したばかりではなく、ナショナルオリジンによる国別移民割当を設け、「望ましい米国人」であるイギリスやドイツなどからは多くの移民を受け入れる一方で、「新移民」であった東欧や南欧からの移民はごくわずかに限られることとなった。日本人の帰化が可能になるのは1952年、国別移民割当の撤廃は1965年まで待たなければならない。

人種差別への抵抗

 ひとつ注記しておきたいのは、これらの人種差別に対して、中国系コミュニティーも日系コミュニティーも決して全てを黙って受け入れたのではないということだ。帰化不能外国人であるアジア系の一世らは米国市民権を取得できず選挙権もなく、持てる力は限られていたとはいえ、他のマイノリティー・グループと共にストライキを起こすこともあれば、差別的な法律に対しては訴訟を起こして闘っている。
 例えば、1898年のウォン・キム・アーク対合衆国訴訟では帰化不能外国人とされた中国人の米国で生まれた二世も、米国憲法修正第14条の出生地主義により米国市民権が獲得できることを確認。この判決があったからこそ、この後、日系二世らを含むアジア系の二世もまた米国で出生した場合、米国市民権を持つことが確かになったのである。

ミネ・オオクボの『市民13660号』より。電車に乗るオオクボをほかの乗客が疑わしそうに見ている。2021年8月28日より、JANMでは同書に収録された全作品を初公開する(Drawing by Miné Okubo. Japanese American National Museum, gift of Miné Okubo Estate Estate)

 また日系人コミュニティーでは、外国人土地法に対して訴訟を起こして闘ったほか、株式会社を作ったり米国人である二世の名義で土地を購入したりするなどして抜け道を探り、実際、1913年以後の日系人の耕作面積は増加している。だがそうした抜け道も1920年の新たな土地法によってふさがれ、外国人土地法に対する訴訟も大半が敗訴に終わっている。しかし、日本語学校教育に関しては、1927年に連邦最高裁で勝訴判決を得て日本語学校教育の権利を勝ち取っている。
 1941年12月7日、そうした苦難の中で築き上げてきたコミュニティーも日米開戦によって一変してしまうのである。戦時ヒステリーに押される形で、1942年2月19日にはフランクリン・D・ルーズベルト大統領が「大統領命令9066号」に署名し、軍事指定地域から民間人を排除する権限を陸軍省に与え、西海岸から日本人を祖先に持つ11万人が強制的に立ち退かされていった。一方で、同じように米国の敵国であったドイツ系、イタリア系に関しては「疑わしい者」だけが選別され拘束された。
 二世のアーティスト、ミネ・オオクボは立ち退き・収容の日々を記録した『市民13660号』でこう記している。「米国市民であるか外国人であるかにかかわらず、私たち全員が疑惑と不審の目で見られたのです」と。「永遠のよそ者」とレッテルを貼られた日系人だけがその国籍のいかんにかかわらず、全て疑わしい「敵性外国人」であるとして強制収容所へと送られたのである。(後編に続く)

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