柳澤佐吉のひ孫・松藤章子さん(右)、やしゃごの山口香奈子さんと今回発見された佐吉一家の写真や史料(写真=吉田純子)

「そういえば、ずいぶん立派なお墓だなあ」
 東京都在住の山口香奈子さんは2004年、祖母の葬儀に参列した際、ふと先祖の墓の大きさを不思議に思った。インターネットで墓石に彫られている名前「柳澤佐吉」を検索してみた。すると初期日系移民の先駆者だった先祖が浮かび上がってきた。
 柳澤佐吉は米国本土初の日本人入植地「若松コロニー」にいた人物として知られる。
 今回、子孫の自宅から佐吉の写真や一家にまつわる歴史的史料が発見された。子孫によると佐吉一家の写真を公表するのは今回が初めてだという。
 日系史の礎を築いた先駆者たちの歩んだ道筋が忘れ去られてしまわぬよう、見つかったばかりの写真や史料とともに、入植者だった佐吉とその家族の足跡、そして子孫が羅府新報に語った先祖への思いをお届けしたい。【吉田純子】

北米初の日本人入植地
作物枯れ、2年で崩壊

 1869年(明治2年)、プロイセン人の武器商人で会津藩主・松平容保の軍事顧問だったヘンリー・シュネルに導かれ、本格的な入植を目的に日本から米国本土に渡った最初の移民団がカリフォルニア州北部エルドラド郡ゴールド・ヒルに入植地「若松コロニー」を築いた。

若松コロニーの跡地に飾られている先人たちの古写真。下段右から2枚目と同じ写真が佐吉のひ孫・章子さん宅から見つかった(写真=吉田純子)

 入植者は戊辰戦争に破れた会津藩の侍のほか、他地域出身者も含まれ、茶や桑の栽培を試みるが、近郊の金山から流れ出た汚染物質や水不足などで作物は枯れ、資金繰りの悪化も重なりわずか2年で若松コロニーは崩壊する。
 横浜市史には、シュネルが農業のため日本人20人ほどをゴールド・ヒルに連れて行ったが、過酷な状況を極め3人が脱走したとの記録も残されている。3人は金銭を持っていなかったが「マツコンパネー(カンパニー)」の佐藤という人物を頼り、印章(おそらくパスポートのこと)を持っていたため途中の食料には困ることはなかったとの詳細も記されている。
 コロニー崩壊後、入植者たちは日本に帰る者、米国に残る者、それぞれ別々の人生をたどった。
 2019年には入植から150年の記念式典がゴールド・ヒルの跡地で行われた。

同じ古写真が東京にも
佐吉一家、生き生きと

 若松コロニーの跡地に飾られている日本人入植者たちの古写真。これらは近郊の町ピラサービルにあった写真館で撮影されたものだ。

今回発見されたアルバムの1ページ目の写真。左上が若松コロニーの跡地にある写真と同じ写真。章子さん、香奈子さんによるとこのページの男性(中央と右下)が佐吉、女性が佐吉の妻・なみ。左下写真の右端の女児は佐吉の娘・米とみられる(山口香奈子さん提供)

 その中にドレスを着ていすに腰掛ける女性の写真がある。筆者が取材で現地を訪れた際、およそ150年前にコロニーを築いた先人たちに思いをはせた一枚でもあった。
 この女性は一体誰なのか。コロニー崩壊後どこへ行き、どのような人生を歩んだのか。その正体は謎に包まれたまま歴史の闇の中に迷い込んでいた。
 しかし2021年10月、その写真とまったく同じ古写真が別の場所で発見された。
 見つかったのはゴールド・ヒルからおよそ5200マイル(約8300キロ)離れた東京都。若松コロニーにいた柳澤佐吉の子孫・松藤章子(あやこ)さん(旧姓・柳澤)の自宅だった。章子さんは香奈子さんの母で佐吉のひ孫、香奈子さんは玄孫にあたる。

ドレスを着たなみと幼い頃の米とみられる写真(山口香奈子さん提供)

 写真が見つかった章子さんの自宅に筆者が訪れると、まだ発見されたばかりのアルバムはほこりに覆われ、背表紙の縫い目はほころび、暗闇の中に埋もれていた歳月の長さを感じさせた。しかし、アルバムの中の人々はまるでこの時を待っていたかのように生き生きと鮮明にその姿を今に残していた。
 アルバムには佐吉をはじめ、妻・なみ、長女・米(よね)の写真など主に家族に関連する写真が収められていた。
 そして筆者が最も目を奪われたのは、若松コロニーの跡地にあった写真とまったく同じ写真がそのアルバムの1ページ目にあったことだ。
 若かりし頃の佐吉の写真とともに家族のページにあることから「この女性が『なみ』だと思います」と章子さんと香奈子さんは話す。
 幕末から明治、大正期の古写真専門家である日本カメラ博物館の井桜直美氏も、このページの中の男女と子供は「父、母、子の可能性が大いにある」という。
 なみは異なる服装で何枚かの写真に写っており、井桜さんも女性はどれも同一人物と分析する。また、なみと一緒に写っている女児もどれも同一人物とみられ、米である可能性が高い。

米に送られた1900年ころのヨセミテや金山のポストカード(山口香奈子さん提供)

 今回見つかった史料は写真のほか戸籍謄本や旅券(パスポート)、大学卒業時の帽子、医師免許証、経歴書、給与明細、米の友人たちが世界各国から送ったポストカードや日本で購読していた英字新聞の切り抜き、米国で育ったため米は日本語が苦手だったのか日本語の練習帳もあった。ポストカードからは米のグローバルな交友関係をうかがい知ることができる。
 「米の来客者は米国人が多かったと母から聞いています。私の小さい時の遊び道具も米国製のおもちゃや米のお医者さん道具でした」と章子さんは話す。
 日露戦争の時、米は従軍家族へ、佐吉は軍人への寄付をしていたようで感謝状も残されており、社会への奉仕の心も忘れてはいなかった。
 章子さんは小学生の頃から米の写真を見ていたが、父親が亡くなった頃を最後に写真の行方は分からなくなっていたという。今回、章子さんが実家を整理した際、祖母(米)の形見として預かった荷物の中から佐吉一家のアルバムと史料が出てきた。
 歴史の闇に葬られたかに思われた佐吉一家の写真は、こうして子孫の目に触れることとなった。(第2話へ続く)

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