サンフランシスコ・メディカル・スクール時代の米(前列左から2人目)とクラスメイト。女性は3人しかおらずアジア系の学生もほとんど見当たらないのが分かる(山口香奈子さん提供)

 「やっと会えた!」。若松コロニーにいた柳澤佐吉のやしゃご、山口香奈子さんは佐吉の写真と初めて対面した時の衝撃をこう振り返る。「写真はもうないものだとあきらめていました」。香奈子さんの目に映る佐吉は「優しい雰囲気のひいひいおじいさん」そのものだった。そして初めて見る佐吉の娘・米(よね)は美しかった。

米、バークレー学生に
日本女性初、学業は優秀
地元紙がフルページで紹介

 佐吉の長女、柳澤米は日本人女性として初めてカリフォルニア大学(現在のUCバークレー校)を卒業した人物である。
 今回発見された戸籍や履歴書などの資料によると米は1873年(明治6年)6月22日に日本で生まれた。1934年6月24日付の日米新聞のインタビューによると、東京九段下の飯田町1丁目で生まれたようだ。母・なみは米国で米を身ごもると日本に帰国し出産。産後間もなく再び渡米した。米国の空気の中で授かり育ったため「米(よね)」と名付けられた。
 6歳の時にサンフランシスコのチャイナ・ミッションでなみとともに洗礼をうけ聖名を「ユナ」と名付けられる。当時そのミッションの地下では日本人が夜学を受けており、米はその教師の家に預けられグラマースクールに通っていたという。

UCバークレーを卒業した時の米(山口香奈子さん提供)

 1882年9月にサンフランシスコの小学校に入学後、84年9月に当時サンノゼにあったパシフィック大学の初等部(グラマースクールに相当)に入学。93年5月に同大学のアカデミック学部(高等学校に相当)を卒業後、同年9月に同大学の英文科に入学し、95年5月まで在籍。同年9月にUCバークレーの英文科に入学した。
 当時は女性が高等教育を受けるのも難しかった時代。アジア系女性ではなおさらだった。
 84年に明治政府が日本人の海外渡航を正式に許可して以降、90年にはカリフォルニア州への日本人移民人口も急増し、移民の流入とともに労働力を奪われる恐れから排日感情が高まり始めていた時期でもあった。93年にはサンフランシスコ教育委員会が日本人学生の公立学校への入学を拒否する決議案を採択し、当時のサンフランシスコ総領事・珍田捨巳が抗議し撤回させる事態も発生していた。
 そんな中、米は日本人女性として初めてUCバークレーに入学。1896年1月2日付のサンフランシスコ・コール紙には将来有望な女性として顔のイラスト付きで紹介されている。
 同紙のインタビューで米は子供時代を東京で過ごし、米国でのビジネスに興味があった父親が13年前に米を米国に連れてきたと話している。
 米が同紙の記者に宛てた手紙も掲載されその英語力と知性は絶賛された。手紙の中で米は、米国で高等教育を受けられる幸せをつづる一方、男性の英語教師はいるのに女性がほとんどいないことに言及し、将来は日本で英語教師になりたいと語っている。
 UCバークレー事務局によると、米は98年5月18日に文学士を取得し卒業。同年9月に当時のカリフォルニア大学の医学部で現在のカリフォルニア大学サンフランシスコ校(UCSF)の前身サンフランシスコ・メディカル・スクールに入学し、1901年5月15日に卒業。同年8月にカリフォルニア州で医師免許を取得した。
 1902年7月13日付のサンフランシスコ・エグザミナー紙には、米の学業での功績を紹介する記事が写真付きでフルページで掲載され、米はその記事を大切にとっておいたようだ。今回、子孫宅でその記事も見つかった。

なみの死後、シングルファーザーとなった佐吉と少女時代の米(山口香奈子さん提供)

シングルファーザー佐吉
期待に応えた最愛の娘

 妻と子供たちを相次いで亡くしていた佐吉にとって残された米が彼のすべてだったのだろう。
 なみ亡き後、新聞の結婚欄には1888年7月18日に佐吉とカネコ・オコという日本人女性との結婚を報じる記事があるが、1900年の国勢調査では配偶者死亡となっている。
 羅府新報1926年1月17日付に在米日本人の元祖を特集した記事があり、佐吉は西洋料理店の元祖として紹介され、長女の学業を助けるためレストランを開業したとある。なんとか子供には米国で良い教育を受けさせてあげたいとシングルファーザーだった佐吉は心からそう強く願ったのだろう。

 米はいつもテイラーメードのドレスを身につけていたようで、佐吉もビジネスで成功し、最愛の娘には常に美しいドレスを着せてあげたかったのだろうと想像する。

 苦労を重ねた父の背中を見ていた米もまた期待に応えるように学業に励んでいった。

着物姿の佐吉の娘・米(山口香奈子さん提供)

佐吉も日本へ永久帰国
反日感情の高まり背景に

 医師免許を取得した米だったが、日系人への風当たりが日増しに強くなる米国で米に医師として働く機会は訪れなかった。卒業後は父のレストランで働く日々が続いた。
 そしてこの頃、米はオークランドやサンフランシスコで歯科医をしていた大屋要作と結婚する。要作のパスポートによると彼は栃木県足利に生まれ、学術研究のため1894年に19歳で渡米した青年だった。2人は籍を入れておらず内縁関係だった。
 1902年11月、反日感情の高まりを受け、米は日本へ帰国の道を選ぶ。佐吉も同時期に帰国したとみられ、これが永久帰国となり、佐吉のカリフォルニアドリームはここで終止符を打つこととなる。【吉田純子】(第5話に続く)

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