木津嶺志津師のお別れ会で、恩師を追悼し演奏を行う弟子たち

 生涯をかけて民謡に携わり当地民謡界の重鎮として親しまれた木津嶺志津師(本名・上村静子さん)が2020年8月10日、99歳で亡くなった。コロナ禍ですぐに開催できなかった「お別れの会」が5月22日、トーレンスのミヤコ・ハイブリッド・ホテルで催され、家族と弟子約30人が法要と民謡の演奏で故人を供養した。
 司会進行のタック西さんは日英バイリンガルの名司会者として知られ、嶺志津師とは長年、日系コミュニティーの舞台を共に盛り上げてきた仲間である。「民謡の先生として親しまれてきた嶺志津先生、人生の全てを民謡にささげた先生に感謝し、先生の素晴らしさをしのび、先生のにこやかな笑顔を思い出しましょう」としめやかに開会を宣言した。

出席者が耳を傾ける中、オンラインで日本から弔辞を述べる木津流家元の木津竹嶺氏(画面内右)と後継の娘・かおりさん

 民謡竹嶺流・木津流家元の木津竹嶺師と後継の娘・かおりさんが午前4時の日本からビデオ会議システムを通じて弔辞を読み上げた。時々声を詰まらせながら、長年の公私にわたる付き合いを振り返った竹嶺師は、「1981年の高野山ホール発会式から始まり、日米会館にて数えきれないほど演奏会を行った。LA竹嶺会でおよそ20人の名取を出した。類を見ない団体で、そのようなグループにまとめ上げた功績は言葉では表せないほど偉大である」と述べた。先ごろ日本郷土民謡協会から民謡栄誉賞を受賞した家元・竹嶺師は「名誉な賞をいただけたのも、長年にわたり民謡を通して国際交流を行ってきたことが認められたためと確信している」と、嶺志津さんの功績に感謝した。
 「嶺志津さんはよく『心配なことがあっても翌日目が覚めると忘れている』と言っていた」と振り返り、「戦争を通して想像に耐えない経験を経た人生だったのだろう」と、その強さと明るさの源に触れた。故人が民謡を通して日系社会に残したかったことに思いを馳せ、「日本人としての謙虚ながらりんとして美しい心、周囲との調和の大切さ、そして、朗らかで楽しい時を過ごす—こんなことを一番大切に、意識していたと思う」と述べ、「嶺志津さんという大きな存在が示していた指針の方向を見定め、(嶺志津師の娘の)アイリーンこと嶺式さんと(孫の)ジャニファーこと嶺幹さんを筆頭にLA竹嶺会の皆が一丸となり、民謡にまい進し、明るく朗らかに未来に前進していけることを祈る」と締めくくった。
 師範の1人である水島グレースこと木津嶺景さんは、嶺志津師から勧められて稽古を始めた日のことを振り返った。

木津嶺志津師の遺志である日本民謡の楽しさを継承する弟子たち

 「母が習っていて民謡の曲は好きだったので三味線の稽古を始めたが、社会人だったのでグループレッスンに参加できず、毎週土曜に先生のお宅に通った。いつも昼食を食べさせてくれて、最高のお稽古だった。『三味線は習うけれど歌は歌いません』と言っていたのに、先生はいつも『その内に歌うようになるでしょう』と…。そして最後には断わりきれなくなって、結局、先生に歌わされてしまったが、やってみたら楽しくてもう30年。子どもたちも引き入れ、娘はまださおの先に手が届かない小さな頃から先生に三味線を習い始めた。息子は高校生になって尺八を始めた」。母の松本典子こと木津嶺紅さん、娘のカエリーさんとジャスティンさん。親子3代で嶺志津師を仰ぐ。嶺景さんは、「先生からは民謡だけでなく、日本の文化、行儀、人間としてのふるまいなど多くのことを学んだ。母から始まり、3世代。先生は私の人生の一部だ」と述べ、「先生がいつも言っていらした『Be Happy』という言葉を胸に、先生との思い出を大切にしながら、続けていかなければならない」と誓った。
 食事の後、師範、名取らが民謡14曲を演奏し、亡き師を弔った。踊りに菊田会から2人の踊り手が参加した。
 来賓には嶺志津師を「県人会を通じて日系社会への道案内をしてくれた私の米国の母」と仰ぐ南加熊本県人会会長の沖田義邦氏、民謡協会会長・民謡松前会家元の松前勝清師と同会顧問の松下修氏。法要は本派本願寺羅府別院の釈順響開教使によって執り行なわれた。

会場に飾られた木津嶺志津師の遺影

 木津嶺志津さんは1921年8月4日にカリフォルニア州コートランドに生まれた日系米国人。教育を日本で受け、高校卒業後は米国に戻り、サンフランシスコでファッションデザインを勉強した。42年の結婚後すぐに、第2次世界大戦の大統領令によりアリゾナ州ギラバレーの日系人戦時転住所に送られた経験を持つ。

 57年に夫が他界してからは、2人の娘と1人の息子を育てるためにテレビ・映画業界でファッションデザイナーとして働き、やがてはビバリーヒルズで自身のファッションブティックを経営したり、フランスのパリでファッションショーを開催したりした。民謡と出会ったのは子育てが一段落した頃で、高名な尺八奏者でコロムビアレコード所属の木津竹嶺師を紹介され、日本で3カ月間三味線と歌の指導を受け、その後も45年間にわたり年に3、4回は稽古のために日本に行き来するという生活を続けた。75年に竹嶺師から許されLA竹嶺会を創立した。

 「継続は力なり」をモットーとし、歌と三味線の稽古を無料で生徒に提供した。その理由は、お金のない若者たちに、義務に感じるのではなく楽しみながら習う稽古の機会を提供したいと望んでいたからだという。嶺志津師に師事して40年以上という弟子も多く、親子3代で嶺志津師を師と仰ぐ家族もいる。嶺志津師の子や孫、ひ孫たちもLA竹嶺会で演奏している。
 80年からは敬老引退者ホームの各施設やガーデナ平原JCIで民謡レッスンのボランティアを始めた。2015年には小東京の日系パイオニアセンターでも無料レッスンを開始した。40年以上のボランティア活動を振り返り「真の満足は、人々に与え、音楽とコミュニティーサービスへの愛を通じて人々が学んでいくのを見ることによって得られる」と話していた。日本民謡協会、南加県人会協議会、熊本県人会、熊本婦人会、南加民謡協会、百働会、盆栽クラブ、高瀬会、日米文化会館、ガーデナ平原日系文化会館などの多くの市民団体とかかわり、舞台を務めてきた。

娘の嶺式さん(右端)、遺影を抱く孫の嶺幹さん(中央)を中心に、日系4世のひ孫たちも楽器を演奏し、嶺志津師の遺志を継承する

 2020年8月10日、トーレンスの自宅で家族に見守られながら安らかに亡くなった。
 日系米国人として生を受け、戦時キャンプ収容というつらい日々や、夫の死を経験しながらも強く明るく、そして民謡を通じて日米の心の懸け橋となって生き抜いた、99歳の偉大な女性の死を、全員が心より悼み、そして竹嶺会のバトンは娘、孫娘、ひ孫へと手渡された。
 家族の皆が楽器を演奏し、男の子たちも民謡協会や県人会協議会のショーで演奏してきた。ジャニファーさん、ショーンさん、エイダンさんは教えてもいる。
 娘の嶺式さんは回想する。「母は、私たち全員に、あらゆる種類の音楽を楽しんでほしいと望んでいました。それは音楽が普遍的なものだからです」 (長井智子、写真も)

2020年に亡くなった木津嶺志津師のお別れ会に集まったLA竹嶺会の会員と来賓ら

Leave a comment

メールアドレスが公開されることはありません。