デモンストレーションでミュージクタペストリーを紹介する奥田さん

 日本の大手楽器メーカーもこぞって出品する世界最大級の楽器見本市といえばオレンジ郡で初夏に開催される「NAMMショー」だが、コロナウイルスのパンデミックをへて再開した今年のショーに、電子楽器メーカー「カシオ」の奥田広子さんの姿があった。
 技術開発者の奥田さんは、鍵盤楽器の演奏を解析して自動でデジタルアート画を描く新技術「ミュージックタペストリー」を紹介するために日本から訪れた。デモンストレーションの演奏が始まると、同時に背後のモニタースクリーンに絵が描かれ始め、音の強弱や調べに合わせて曲線や大小の花びらなどが出現して、演奏が深まるにつれて複雑で美しいデジタル絵画となっていった。リアルタイムで音を解析する技術により、楽しい曲なら明るい絵に落ち着いた曲ならシックな雰囲気の絵になる。弾き方の違いで結果が異なるため同じ曲でも二つと同じ絵が生まれることはないという。音楽には癒やしの力があるが、そこに視覚が加わればヒーリング効果の高まりも期待でき、さまざまな分野で利用できそうである。

 この技術を開発した奥田さん。実は過去に開発したある楽器によって「知る人ぞ知る」人物である。

デモンストレーションでミュージクタペストリキーボードの演奏に合わせてモニターの中にデジタルアート画が描かれていったーを紹介する奥田さん

 奥田さんは1980年にカシオ計算機が初めて採用した女性の大卒技術系開発者というだけでなく、国立音楽大学の楽理科卒業というユニークな学歴の持ち主だ。同僚の音大出身者の中でも特に、第三世界ブームだった70年代後半にジャマイカのレゲエ音楽に魅せられ、レゲエで卒業論文を書いたという変わり種でもあった。当時カシオは電子楽器に参入したばかりで、奥田さんはカシオ初の自動伴奏付きミニ鍵盤楽器「カシオトーン MT—40」の企画、仕様、パターン制作を担当した。
 同機種のためにベース音とドラム音だけで6種類X3コードのパターンを作曲し、組み込んだ。奥田さんは当時を振り返り「簡単なパターンだが、当時はまず楽譜を書き、16進法のコードに直し、コンピューターに打ち込んでROMに焼き、やっと音が出るという時代。大変な音楽制作環境だった」と説明する。コンピューターで簡単に音楽が作れる現代とは異なる時代だったのだ。「でも、出来上がりは『これは好まれる!』と自信を持てるものだった」
 同機種は81年に全世界向けに発売された。
 折しも80年代はデジタルサウンドの台頭によって音楽のスタイルが塗り替えられた時代。85年にレゲエ・ミュージシャンのウェイン・スミスが楽曲「アンダー・ミ・スレン・テン」を世界的に大ヒットさせたが、その曲が「カシオトーンMT—40」に出荷時から組み込まれていたプリセットパターンを使って作曲されたことが大きな話題になり、レゲエ音楽がその後急速にデジタライズしていくきっかけになった。
 奥田さんが作ったそのリズムパターンの名称は「rock」だったが、「アンダー・ミ・スレン・テン」のヒット以来、一般的に「スレンテン」あるいは「スレン・テン・リディム」と呼ばれるようなり、さまざまな楽曲で利用されるようになった。スレンテンの楽曲は現在までで450曲にも上り、最近ではフェイスブックがメタに社名変更をした時のコマーシャルにも使われていたという。私たちが普段、何気無く聞いているレゲエの象徴的なリズムに開発者がいて、それが日本人の女性だとは誰が想像しただろうか。
 「アンダー・ミ・スレン・テンが流れ出した時、誰もがこの曲に乗って踊り出したと聞いている」。奥田さんはレゲエの本場ジャマイカでこのリズムが爆発的に受け入れられた逸話を紹介する。「ここから、ジャマイカの多くのミュージシャンがMT—40で音楽を作るようになった」。ジャマイカは貧しく、誰もがスタジオに入りミュージシャンを雇ってレコーディングできるわけではないが、MT—40のスレンテンを使えば、そこに歌やギターを乗せるだけで手軽に音楽を作ることができるからだ。「MT—40は音楽を民主化したと言われているが、これは『全ての人に音楽を奏でる喜びを』というカシオの楽器制作の理念にも通じる。若者にチャンスを与えることができた点では『貢献できたかな』と思う」と奥田さんはほほ笑む。
 こうしてMT—40は伝説の楽器になった。カシオ社員の奥田さんがスレンテンの生みの親だということは近年まであまり知られていなかったが、レゲエを深く理解する心から生まれた一つの音楽パターンが、ジャマイカをはじめ世界中にいるレゲエ音楽の愛好者や演奏者との共感を実現し世界に波及したという制作秘話が知られるようになり、最近、話題を呼んでいる。

1981年に発売されたカシオトーンMT—40の貴重な1台を持つ開発者の奥田広子さん

 「卒業論文のために歴史や背景も含めてレゲエを研究した。同じように重い内容の歌詞を歌っていても英国のパンクの音が破壊的なのに対しジャマイカの音は明るい。それは、なぜか。レコードと文献に埋もれた」。そう話す奥田さんは「卒業後すぐだったので、パターンを作った当時は体にレゲエが残っていたと思う」と笑う。こうなると、スレンテンがレゲエのリズムとして受け入れられたことは、偶然と言うよりは必然のなり行き。音大を卒業したばかりの1人の日本人女性がレゲエの音楽史を変えたことは一見不思議な出来事に思えるが、それは、異なる環境や言葉を超えて人をつなぐことができる音楽の力の証明である。
 今年も多くの来場者を集めたNAMMショー。奥田さんがレトロなMT—40を持ってカシオの展示ブース内に姿を現すと、来場者が足を止める。「懐かしい」「僕もこの機種を持っていたよ」「一緒に写真を撮っていいかな」と次々に声が掛かる。大変な人気である。
 「その後もいろいろな楽器を開発してきたが、やはり最初の1台なので思い出深い」と奥田さん。スレンテンのパターンを搭載して40年前に世に送り出されたMT—40は、今では社内にも2台ほどしか残っていない貴重品だという。
 奥田さんが現在携わっているのは、指先が奏でるメロディーが美しい花に変わる、魔法のような「ミュージックタペストリー」である。楽器の習得には時間と努力が必要だが、ここではデジタルの力を借りて新しい角度から演奏を楽しむことが提案されている。
 スレンテンが多感な青春時代に夢中になったレゲエ音楽から生まれたとしたら、美しい花々は奥田さんの人生のどのような経験から生み出されているのだろうか。
 奥田さんがカシオに技術者として採用されたのは、日本に男女雇用機会均等法ができる85年よりも前のこと。社会に出て働く日本の女性の先駆者であり、長年、音楽機器の第一線で開発に携わる奥田さんは、「音楽知識に基づいたアプローチで新しい楽器や技術を考えることがライフワーク」と語った。(長井智子、写真も)

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