日本は9月に入り虫の音が耳につく季節となった。11日から国技館で行われる大相撲番付表が届いた。そのニュースレターから「国技館の歴史」をご紹介したい。
相撲の常設館は、明治39年6月着工、3年後の明治42年5月に竣工し、6月2日に開館式が行われた。常設館の名称は、当時設立委員会の委員長を務めていた伯爵・板垣退助が提案した「尚武館」が有力候補だった。ところが、大の相撲好きの作家・江見水陰が開館式の式次第のために起草した披露文の中に「相撲は日本の國技なり」という一文を見た委員の1人、年寄の3代尾車はいたく感じ入り、土壇場で「國技館」という名称を提案した。名称について5月29日の委員会で話し合われたがまとまらず、結局開館式直前になって板垣の了承で最終決定したという。
6月2日午前5時の祝砲に始まった開館式は、空前の盛会となり、土俵中央で板垣が「國技館」と命名されたことを高らかに宣言すると、会場は万雷の拍手に包まれた。翌3日付の朝日新聞が「國技と名付けられたる相撲道がいや榮に榮ゆくべき瑞相とは知られたり」と書いたように、相撲はここに神事から国技へと変貌を遂げたとある。国技館は、初代が日大講堂跡地、蔵前、両国と、現在で3代目だという。
大相撲は今や外国でもファンが増え、モンゴルをはじめ外国人力士も増えた。礼儀作法やしきたりを覚えるのは外国人力士にとって相当の努力がいるだろう。
力士の体格も年々大きくなり、けがも増えている。力士の負傷への備え、外国のファンへの相撲の理解、外国人力士への教育など、親方や相撲協議会の在り方など、相撲協会の一段の工夫と努力が期待される。
寄せ太皷が響くと相撲好きは気持ちが浮き立つ。200キロを超える力士も100キロ前後の力士も土俵にあがれば対等に戦う。現代の1対1の対戦スポーツは体重別クラスが多いが、相撲は体重や身長でクラス分けをしない珍しいスポーツだ。大型力士はその体力を生かした取り口で攻めるが、小兵の力士は対抗上いろいろと工夫し思わぬ技を繰り出す。それが決まれば判官贔屓(びいき)のファンは拍手喝采。これが大相撲の醍醐味(だいごみ)だ。これからもますますの発展を期待したい。(若尾龍彦)