大みそか、年越しに呼んでいただいたお宅では家族全員、米系の一般テレビ放送をほとんど見なくなったと言っていた。ゴルフチャンネルなどの専門局からオンデマンドで番組を見れば十分だと言う。
知人は「憂鬱(ゆううつ)になるから報道番組は一切見ない」と言っているし、今の若者はテレビ放送を見る習慣すらないという。
新鮮を好む日本で育ったので「テレビの生中継」と聞くと心が踊ったものだが、米国に住んでいると「LIVE」とうたう番組でさえ一度冷凍して解凍した海鮮食材のようなもので、この新年も3時間前に起こったニューヨークのタイムズスクエアの録画に合わせてのカウントダウンで迎えた。
職業柄、毎朝、配信ニュースをふるい分けしたり、(いまだに)テレビ地上波放送のニュースに耳をそばだてたり、スマホに入る速報に神経をとがらせたりしている。そして更新を続けるウクライナ戦争のニュースにやるせなさが高まる。世界中の多くの人々も思いは同じと信じたいが、どんな正義の下でも殺し合いを正当化したくない。怒るわけにもいかないので気持ちが重くなるばかりだが、その一つの原因は、情報過多にあると思う。
「戦争を知らない子どもたち」とか「新人類」とか呼ばれた私の世代は根アカな80年代のバブル期を謳歌(おうか)していた。子どもの頃から「戦争は終わった(これは親が言っていた)」「戦争なんてもう起こらない」「人間はそんなに愚かじゃない」と信じていたわけだが、そんな自分を振り返って、幸せだったと思うべきか。幼稚だったとがっかりするべきか。子どもたちには「お母さんたちの世代がボーとしていたものだから世界が何にも変わってないみたいよ、ごめんね」と謝りたい気持ちになり、少し上のシラケ世代とか団塊の世代と呼ばれた方々からは今の世界をどう感じているのか聞いてみたいと思う。
自分は何者であるかということを考えて見ると、80年代は「軽薄短小」と言われただけに、重たいことに真正面から向き合うのは苦手だと痛感する。重い時代を跳ね返すために、今年は軽薄短小で行こうか。新年の抱負を問われた時に心に浮かんだ言葉である。口に出すのはためらったけど。(長井智子)
