
ラグビーファンにとって待望のW杯の年が明けた。ラグビーのワールドカップ(W杯)フランス大会は今年の秋に開催される。4年前の大会はホスト国の日本が初戦から4連勝の快進撃で準々決勝に進み、日本列島が沸いた。ラグビーは日本でも人気があるが、ここ米国ではプロリーグが創設されては消滅を繰り返す発展途上にあり、盛り上がりを欠いている。そんな米国にラグビー文化を根付かせようと活動する男がいる。元米国代表主将で米ラグビー界のレジェンドと称されるトッド・クレバーさんだ。ラグビーの本場といわれる各国と日本のプロリーグで活躍した経歴を持つクレバーさんが、自らのラグビー人生を振り返りながら、ラグビーのおもしろさと、自身がロサンゼルスに設立した基金の活動、そして新年の抱負を熱く語る。(永田 潤、長土居政史)

イギリス発祥のラグビーは、ヨーロッパ、オセアニア、アフリカ、南米の各国、そして日本でも盛んに行われている世界のスポーツである。日本には、児童のちびっこラグビークラブがあり、高校ラグビー部員は野球の「甲子園」に当たる聖地「花園」という憧れを持ち、大学と世界から一流選手が集まっているプロの「リーグワン」は「国立競技場」での決戦で日本一を目指す。
ところがどうだ。米国では競技人口は少なく、プロリーグがなかなか定着せず人気は上がらないままだ。どうしてクレバーさんはラグビーの道を選び、高い向上心を持続し世界へ羽ばたいたのだろうか。
クレバーさんは1983年、カリフォルニア州のパームスプリングスで生まれ、サンノゼで育った。2歳上の兄の後を追って水泳、サッカー、野球、アメリカンフットボール、ラグビーを始めたありふれたスポーツ少年だったが、他の少年と違ったのは「世界」に目を向けていたこと。「ラグビーは世界で盛んに行われていてワールドツアーがあるので、世界各国を回ることができる」と志を高くした。また「ラグビーの多様性が僕の性に合っていた。体格でポジョンに分かれ、走るのが速い選手と遅い選手、当たりが強い選手と弱い選手がいる中で、それぞれの強みを生かして役割をこなし、チームワークで勝利を目指す。幾つか経験したスポーツの中で他のスポーツにないフィーリングがあった」と説明する。もしもアメリカンフットボールを選んでいたら、その恵まれた体格と抜群の身体能力でプロ入りし、生涯で数千万ドルを稼ぐことができたと想像するが、「アメリカンフットボールは米国内だけのスポーツ。米国を離れ、世界に出たかった」と、淡々と話す。

ラグビーに出会ったのは15歳の時だった。最初のポジションはウイングとフルバック。その後ルールと戦術を理解し、自分に合ったフォワードに就いた。15人制ラグビーから始め、夏には7人制もこなした。当初はサッカーもやっていたがやがてラグビー1本に絞り、世界のトップレベルを目指した。
ネバダ大学リノ校に進学したが、ラグビー選手に対して全額奨学金を与える大学は当時にもなく、クレバーさんは一般生徒として入学した。在学中に非凡な才能を発揮したクレバーさんを認めたコーチの勧めもあり、中途退学してプロに転向することを決意。ラグビー不毛の米国から飛び出し、新天地を目指した。
NZでプロキャリアスタート
世界で活躍、米国人先駆者
2006年、クレバーさんは7人制の米国代表コーチの助言で、ラグビーの本場ニュージーランドへ渡った。弱冠23歳。「ノースハーバー」に入団し、プロ選手としてのキャリアをスタートさせた。クレバーさんは「ここでのハイレベルの経験がその後の活躍に大いに役立った」と顧みる。

ニュージーランドでの活躍が認められて09年、世界最高峰のエリートリーグと称される「スーパーラグビー(当時の名称はスーパー14)」に加入した。米国人選手初の快挙で、米国ラグビー史に名を刻んだ。
スーパーラグビーは、ニュージーランド、オーストラリア、南アフリカの強豪国から数チームが参加しリーグを結成。クレバーさんは南アフリカを拠点とするチーム「ライオンズ」に入団した。イングランド、スコットランド、ウェールズ、アイルランドの4カ国の代表選手により組織された「ブリティッシュ&アイリッシュ・ライオンズ」を相手にした歴史的な試合にも出場した。絶頂期のクレバーさんは、米国代表の主将としてチームを引っ張った。15人制と7人制を掛け持ちし精力的に世界を転戦した。
「南アフリカ人も英語を話すので、言葉の壁はなかったのでしょう?」と聞くと、「いやいや、プレー中は現地語のアフリカーンス語でコミュニケーションを取ったんだ。対戦相手がオーストラリアやニュージーランドの時にサインプレーが見破られないようにね。英語だとバレてしまうからね」と答えた。それ故にアフリカーンス語も必死に学んだという。
身長193センチ、体重100キロという巨漢にはパワーがあり、俊足で、素早い身のこなしのセンスも抜群。世界のトップ選手にもまれ、多くを吸収し、技術を磨きながらラグビーIQも向上させた。
海外異文化の中での生活や交流に10代の頃から常に深く関心を持ち続けていたクレバーさんに、次なるチャレンジが訪れた。
世界的な名将に誘われ日本へ
「素晴らしい人生経験に感謝」

日本のラグビーファンなら誰もが知っている、世界的に有名な名将エディー・ジョーンズから運命的な誘いを受けた。当時、日本の「トップリーグ(現リーグワン)」の強豪チーム「サントリー」のヘッドコーチを務め、後に日本代表をヘッドコーチとして率いたジョーンズが、クレバーさんの活躍に注目し、「日本に来ないか」と声をかけたのだ。
ジョーンズ・ヘッドコーチは日本のラグビーについて一から教えた。ラグビー界の歴史から、発展の過程、グラウンドを最大限に広く使って早いペースで展開していくプレースタイルなど。クレバーさんは「自分のラグビーに適合しそうだ」と、大いに興味を持ったという。
日本に渡るまで何一つ理解できなかった日本語は、クラスを週5回受講し、流ちょうに話せるようになった。「他の外国では街に出ても英語が通じるので、意思疎通で困ったことはなかった。でも日本は他と全く違った」。日常生活に慣れるにも努力が要ったが、苦労話はいい思い出の一つ。チームメートからのサポートを得てチームに溶け込んだという。

サントリーでは、2シーズンプレーした。クレバーさんの加入で勢いづいたチームは優勝を飾った。「エディーは心底ラグビーを知り尽くし、まさに辣腕(らつわん)の素晴らしいコーチだ」とジョーンズ・ヘッドコーチを称賛する。「もちろん、最後まで妥協せず、定評通りの厳しくタフなコーチでもあった」と、付け加えるのも忘れない。「北海道の夏合宿は本当にキツかったが、それでも楽しかったのが良い思い出だ」と、笑顔で振り返る。
当初は、2年日本でプレーした後に南アフリカに戻る予定だったという。だが「すっかり順応して日本がとても気に入ってしまい、もっと長くプレーを望んだんだ」。サントリーから「NTTコミュニケーション」に移籍し3シーズンプレーし、日本での計5年のキャリアを終えた。

日本の生活とラグビー環境には感銘を受けたという。「クラブハウスやトレーニングジムなど充分した施設が整っており、スタッフたちもプロフェッショナルで、至れり尽くせりのサポートで支えてくれた。人々は礼儀正しく、とてもナイスで、食事もおいしい。本当に素晴らしい人生経験をさせてもらった。日本の文化に敬意を表し、感謝している」と、感慨深げに話した。
実はクレバーさんには日本に思い入れが深い理由がもう一つある…。「それは娘が日本で生まれ『Tomoko』と名付けたから」と頬を緩ます。日本との親交は続けており、古巣の2チームを訪問したり、旧友との再会で往時に思いをはせる。日本にはW杯観戦を含め2度戻ったが、3度目は新型コロナウイルスの渡航規制によるビザ取得などがネックとなり、断念した。「日本のおいしい食べ物と文化が恋しい」と、次の訪日を楽しみに待つ。
米国代表最多の76試合出場
国を背負い「名誉と重圧感じた」
ラグビーには本拠地を持たずに試合ごと、ツアーごとに世界の一流選手を選出し招待して編成する、伝統ある「バーバリアンズ」というチームがある。クレバーさんは15年に招待され、世界に名をはせた。

その後、イギリスに渡り、最高峰のプレミアシップ・ラグビーの「ニューキャッスル」に入団し、1シーズンプレーした。それから米国に戻り、新たに結成された米プロラグビーリーグ「メジャー・リーグ・ラグビー(MLR)」のテキサス州オースティンを拠点としたチームに入団し、引退まで最後の1年をプレーした。
海外に主たる活躍の場を求めたクレバーさんだが、米国代表として米国のためにプレーしたことには高い誇りを持つ。03年、20歳で早くも米国代表に選ばれ、翌04年には7人制代表にも選出された。
W杯は03年のオーストラリア、07年フランス、11年ニュージーランドに連続出場した。特に11年には主将としてチームをけん引。米代表では53試合で主将を務めた。19年、米国代表選手として76試合の最多出場記録(現在も保持)を作り、同年引退した。

「W杯という世界最高のひのき舞台でのプレーは格別だった。一番の思い出は初めてのW杯、オーストラリアでイングランド戦に先発した時」と、当時のこの上ない喜びを懐かしむ。代表として国を背負っての戦いについては「とても名誉。だが、W杯でプレーすることは誇りと同時に、他のトーナメントでは味わうこと のない重圧を感じた。米国代表のジャージーを身に着け、大観衆の前で国歌を聞くことほど素晴らしいことはない」。
自らの名を冠した基金設立
「米ラグビーの成長に貢献する」
クレバーさんは現在、自身の「TODD CLEVER FOUNDATION」の活動に力を注ぐ。地域社会からのヒーロー育成を目指すクレバーさんは、この基金を通じてポストを備えたラグビー専用フィールドの造成、ラグビーコーチとレフリーの育成、ジャージーやボールの提供を行う活動を行っている。

元カリフォルニア州知事アーノルド・シュワルツェネッガー氏の基金の協力により、ラグビーによる放課後プログラムの充実を広め、ロサンゼルス、ニューヨーク、メンフィスで展開する「シティープログラム」は「選手やラグビーに携わる人々が楽しむことができるように必要なものを提供する草の根活動だ」と胸を張る。
今年の抱負を「ラグビーボールが1人でも多くの少年少女の手に渡るように、情熱をかけて推し進めること。われわれの活動をラグビー人気につなげ、メジャースポンサーの協力を得て米国ラグビー界全体の成長に貢献したい」と、力強語った。
年間をかけて世界中の都市を巡業する男子ラグビー7人制の国際大会(全11)の第6戦「HSBCワールドラグビー・セブンズシリーズ・ロサンゼルス大会」が、今年2月25、26日にカーソン市で開催される。クレバーさんは大会の親善大使に任命されている。大会の冠スポンサーのロゴを胸にプリントした赤いジャージ姿で臨むといい「ぜひ見に来てほしい。そこで再会しましょう」と、日系社会のラグビーファンに向けて、観戦を呼びかけた。
