大統領選といえば渡米当時、レーガン大統領のダイナミックで爽やかな思い出が蘇る。
1981年はレーガン大統領が誕生した年。日本は戦後の経済復興が目覚ましく、自動車産業の急速な発展で日米貿易摩擦が激化していた。日本の各自動車メーカーは米国にも製造拠点を作り、当地の失業率緩和に応えようとした。自動車部品メーカー勤務の私はその春にロサンゼルス子会社へ出向した。
ロナルド・レーガン氏は元映画俳優で、俳優組合の委員長、カリフォルニア州知事を経て大統領選に挑戦し、2回目で大統領に当選した。彼の人気は類まれな機知とスピーチ力で、民衆とのコミュニケーションを通じて広く人々に愛され支持された。彼は「Make America Great Again」をキャッチフレーズに大統領選を勝ち抜いたのである。
85年、レーガン政権の産業競争力委員会は技術競争力と知財政策強化の「ヤング・レポート」をまとめた。彼はこれにより特許重視のプロパテント政策を取り、経済の復興につなげた。
特許法は米建国時代、憲法の原案作成者であり自らも回転椅子を発明したトーマス・ジェファーソンが作り上げ、特許委員会の初代委員長を務めた。プロパテント政策下では新規の発明が盛んになり産業が発展するが、やがて大企業の独占が始まりこれを抑える独占禁止法でアンチパテント政策に変わる。
レーガン大統領の業績は多岐にわたるが、1期目は経済の回復を目指し、大幅減税と積極的財政政策「レーガノミクス」を実施したが、経済の回復と共に財政収支と貿易収支(経常収支)にいわゆる「双子の赤字」をもたらした。2期目はデタントを否定し「力による平和主義・レーガン・ドクトリン」でソ連と共産主義に対峙。英国のサッチャー首相、日本の中曽根康弘首相、西ドイツのコール首相など同盟国の首脳と密接な関係を結び、世界中の反共産主義運動を支援し、冷戦の終結に大きく貢献した。
当時、週末になると飛行場から大型ヘリコプター4~5機が飛び立ち、北西へ向かって飛んで行く。政務を離れて週末を自分の牧場で静養するためである。夕暮れの空へ消えて行くヘリコプターの編隊は、今も胸に残って消えない。(若尾龍彦)

