囲碁は将棋よりも世界で広く打たれている、と聞いて始めてみた。スマホのアプリを入れ、ルールを一通り覚え、ほぼ1カ月、ベッドに入る前の時間を修行に費やしていたら、なんとなく石を置けるようにはなった。囲めば相手の石を取れることも分かった。だが、それ以上が分からない。どこが陣地なのか、どちらが優勢なのか、どうすれば勝ちに近づくのか。まるで霧の中にいるようだ。アプリのヒントを頼りに勝っても、なぜ勝てたのかが分からない。囲碁の醍醐味が見えないまま、ただ盤上に石を並べている感覚だけが残り、かなり悔しい。
 将棋やチェスには王様がいる。取れば勝ち、という明確な目標がある。だが、囲碁にはそれがない。石を取るのが目的かと思えば、必ずしもそうでもない。盤は広く、石はすべて同じ形で、何を目指しているのかが分からない。陣地を増やすとは? 必要なのは見えない未来を見通す力? 勝敗の基準が霧に包まれているからこそ、面白さもまた見えにくいのだろうか。
 もはや「人」に教えを請わない限り、この壁を突破できる気がしない。そういえば、「ガーデナには昔、碁会所があってね」と亡くなった友人が言っていたことを思い出したが、今はもうどこにもないのかしら。
 「向いていない」と投げ出す前の悪あがきとばかり、友人知人に「囲碁できる?」「教えてくれる人いない?」と聞いて回っても、まだ色よい返事は得られていない。だが、友人の1人は、「『ヒカルの碁』は読みましたけどね」と言った。90年代にヒットした、囲碁を題材にした少年漫画だ。ここから始めるべきだろうか。物語を通してなら、盤上に流れる緊張や美しさが見えるかもしれない。技術より先に、囲碁がかっこいいと思える瞬間があれば、景色は変わるかもしれない。
 もう少しだけ粘ったら、もしかしたら、ある日突然、盤面が言葉を持ち始めるのかもしれない。英語学習やほかの習い事でも、ある時突然に「回路がつながる」瞬間を経験したことがある。その境地は見られるのか。
 囲碁の醍醐味は、まだ遠くにある。(長井智子)

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