
モンロビア市で1月13日、「サトル・ツネイシ公園」が開園した。記念式典には関係者をはじめ家族や友人らが顔をそろえた。力強い太鼓の演奏が開園を祝った。
俳句に刻まれた人生
日系人の名を冠したこの公園(1111 Encino Ave.)は、ホテルと静かな住宅街に挟まれた木陰の一角に位置する。リボンカットから1分もたたないうちに、真新しい園内は子どもたちでいっぱいになり、あちこちから歓声が響き渡った。
ツネイシさんの孫のラニ・ツネイシさんは「この公園は、祖父を記念して造られたものだが、一番の魅力は年齢も背景も異なる子どもたちが集い楽しそうに過ごす姿が見られること。その光景は実に美しい」と述べた。
ベッキー・A・シェブリン市長は、市が長年にわたり公園用地の拡充に取り組んできたと述べ、約8600平方フィートの敷地が利用可能になった際、整備に踏み切った経緯を説明した。

「公園の設計・整備を進める中で、ツネイシ氏がいかに素晴らしい人物であったかを改めて知ることができた。とりわけ印象的だったのは、生涯を通じて情熱を注いだ俳句への愛だ」
園内の小道には、俳号「芝青(しせい)」を用いたツネイシさんの俳句が刻まれている。その一つが次の作品である。
A clear autumn day,
Facing my native mountains
I pursue lost dreams.
園内には、遊具や休憩用ベンチの他、全長100フィートに及ぶ色鮮やかな壁画も設けられている。壁画はツネイシさんの生涯の歩みとともに、ロサンゼルス郡で4番目に古い歴史を持つモンロビア市におけるアジア系米国人の足跡を描いたものだ。
家族ぐるみでツネイシ家と付き合いのあるジーン・キソさんは、「ここは地域の人々が一緒に集える素晴らしい場所であり、日系米国人が認められる大きな一歩でもある」と述べた。
差別決議と市の謝罪
ツネイシさんは1888年に日本で生まれ、1907年に渡米して生涯を過ごした。記念式典であいさつした孫のマーク・ツネイシさんは、その人生を「静かな勇気と慈愛、そして不屈の忍耐に満ちた特別な物語だった」と表現し、「米国は移民の汗によって築かれた国である。しかし、その地域や国の礎を形づくったにもかかわらず、働き続けた名もなき人々の存在は、しばしば見過ごされてきた」と、100人を超える出席者に訴えた。
また、第2次世界大戦中、一家がモンロビアの農場から強制退去させられ、ワイオミング州のハートマウンテン収容所に送られた後も、祖父の愛国心と信仰心は揺らぐことがなかったと説明した。
41年12月7日の真珠湾攻撃後、モンロビア市もまた、日系人に対する不当な措置に加担していた。シティーマネジャーのディラン・フェイクさんは、42年と43年に同市が採択した二つの決議について言及した。いずれも国家安全保障を名目に日系人を西海岸から排除しようとするものだったが、実際には人種差別とヒステリーに基づくものであったと認めた。
市は長年、自らの不当な決議を見直すことがなかったが、今回の公園開園に先立ち市議会は差別的な旧決議を正式に撤回する決議「第2025―70号」を採択したと発表した。
さらに、市はツネイシ家をはじめ、アサノ家、クロミヤ家、ウエダ家、カワグチ家、ミマキ家、モリモト家など、モンロビアを離れることを余儀なくされた家族に対し、正式に謝罪の意を表した。

式典には、サトルさんの息子で唯一存命の79歳のヨシさんも出席した。サトルさんと妻のショウさんの間には10人の子どもがおり、そのうち4人は第2次世界大戦で米軍に従軍した。ヨシさんは父親について「穏やかで勉強熱心な人であり、知らないことがあれば必ず自ら調べる人だった。教養はあったが決して裕福ではなく財産や名声を築いたわけでもなかった。それだけに、このような公園ができるとは想像もしなかったと思う。きっと心から喜ぶはずだ」と笑顔で語った。
俳句が息づく憩いの場
総工費160万ドルを投じた整備事業は昨夏に着工し、公共空間の充実を目的とした地域の財源によって賄われた。シェブリン市長は、サトルさんの俳句を園内に取り入れたことが、公園の価値をさらに高めていると述べ、サトルさんが生前に俳句について語った言葉を紹介した。
「俳句とは、言葉で自然の姿を描く芸術である。難しく考えず、自分が実際に見たり聞いたりしたことを、そのまま表現してほしい」
市長はまた、この公園は人々が集い包摂を体現する神聖な場所であるとの考えを示した。「遊具や散策路、俳句をあしらったパブリックアートを備えるサトル・ツネイシ公園が、次世代にわたり市民に親しまれ、この街を形づくってきた多様で優れた人々の功績をたたえ続けることを願う」と語った。(マイキー・ヒラノ・カルロス)
祖父サトルさんの思い出
孫ジョナサンさんが語る
ツネイシ公園
「サトル・ツネイシ公園」の開園にあたり、ツネイシさんの孫、ジョナサン・ツネイシさんが式典の様子と祖父の思い出について語った。
地域の歴史を刻む場所
1月中旬のこの日、モンロビア市はローズパレード日和を思わせる快晴に恵まれた。市内の新しい公共公園「サトル・ツネイシ公園」には、木々の間から柔らかな日差しが差し込み、北には市境に連なるサンゲーブル山脈が雄大にそびえていた。ハンティントンドライブ、いわゆるルート66沿いの会場では、家族や友人、市民、行政関係者、報道陣が大きなテントの下に集まり、多くの登壇者を迎える式典の最終準備を見守っていた。
ステージの背後には新公園の景観が広がり、曲がりくねった小道は、アーティストのトリニティ・リバードが制作した100フィートに及ぶ大壁画へとつながっている。そこには、ルート66や農場、住民、強制収容、そして公園の名となった祖父の人生が描かれている。

壁画には、1930年代に新しい生活を築いた祖父の姿がある。祖父はモンロビア・アーケディア・デュアルテ学区で公立学校を卒業した最初のアジア系米国人だった。祖父と祖母のショウは土地を耕し、鶏やイチゴを育てていた。戦前のモンロビアで農業に従事していた多くの日系人の1人である。
壁画には、ハンティントンドライブ沿いで営んでいた家族の果物店や、戦時中に祖父母夫妻と家族が収容されたワイオミング州ハートマウンテンの監視塔も描かれている。また、祖父が天皇から授与された勲六等旭日章も描かれている。
パノラマ状の壁画の中で印象的なのは、祖母がブルースター旗を掲げる姿だ。四つの星が入ったこの旗は日系コミュニティーでよく知られている。荒涼とした収容施設のバラックで旗を掲げる祖母の姿は、収容されながらも子どもたちは米軍に従軍していたという歴史を雄弁に物語る。コミュニティーが今も記憶し、受け継ぐべき歴史を象徴する場面である。
祖父母の4人の息子は戦争に志願して、南太平洋やフィリピンに派遣された。戦後は2人の娘も加わりマッカーサー将軍の下で日本の新たな民主政府を作るため民間通訳として支援した。その政府は日本の女性に初めての参政権を与えるものとなった。
俳人としての功績
サトル・ツネイシ公園のもう一つの特徴は、園内の小道に刻まれた俳句だ。これはおそらく米国の公共公園として初めての試みだと思う。入口近くには花崗岩の記念碑が移設され、そこにも俳句が刻まれている。一時所在が不明となっていたこの記念碑は、今回の公園整備で再び公開されることになった。ロサンゼルスとサンディエゴで祖父が創設に関わった二つの俳句グループが祖父をたたえて贈ったものである。

祖父は「芝青(しせい)」という俳号で日本と米国で俳句や詩を発表した。20年代には米国で俳句雑誌を創刊し、日本の文芸雑誌「ホトトギス」にも寄稿した。ハートマウンテン収容所でも俳句集を出版し、晩年にも俳句集を発表した。また、ロングビーチ学区の教材に少数派作家として取り上げられるなど、教育の分野でもその業績は広く認められている。
公園のデザインには、複数の石庭が取り入れられている。祖父の姓「ツネイシ」が意味する「常石」を意識した重要な要素だ。石は近隣のサンゲーブル山脈から採られたものだという。
園内には、鮮やかな色彩の遊具が設置されている他、訪れた人が自由に本を持ち帰れる木製の文庫箱もあり、簡易図書館のようになっている。箱の側面の一つには「What is Haiku」と題された短い文章が描かれており、モントレーパークの公立学校で祖父が子どもたちに教えた俳句の作り方が紹介されている。他の側面には、俳句コンクールの概要や祖父自身の俳句が示され、訪れる人々に創作のヒントを与えている。
社会的活動と家族の歩み
祖父は戦前の30年代から40年代にかけて、移民改革や農業労働者の権利を訴えるジャーナリストを支援していた。平和主義者であり、戦争に反対する日系人を指示していたが、一方で息子や娘たちが米軍に従軍する現実とも向き合った。
強制収容後は、モンロビアに戻り、アーモンド通り500番地の農園でガルシア夫妻と一緒イチゴを栽培しながらも、関心は俳句や十四行詩の創作に移っていた。77年、詩人として日本政府より勲六等旭日章を受章した。これは米国における俳句の普及に生涯をささげた功績に対するものであった。祖父母は俳句仲間と共に全米各地を旅し、70代で欧州や日本にも足を運んだ。私のお気に入りの写真の1枚は、ロサンゼルス・ドジャースの新球場建設前のエリシアン・パークで撮られた、初期の俳句グループの集合写真である。祖父は後にドジャースのファンとなった。

祖父の歩みを研究する中で浮かんだ問いがある。強制収容という歴史と個人の信念を、祖父はどのように両立させたのか。祖父は祈りやウィリアム・アーネスト・ヘンリーの詩「インビクタス」に慰めを求めた。サンディエゴの俳句グループの初期メンバーの書類の中には、ヘンリーの詩集が祖父の愛読書であったことを示すメモが残っている。
戦後、10人の子どもたちはそれぞれの道を歩み始めた。長男は保険会社「ウェスタン・パイオニア」を設立して小東京に事務所を置いた。別の息子はイェール大学に進学し、議会図書館で要職に就いた。さらに別の息子は、ハイチの地方病院で夏を過ごしリムベの町の近くで井戸を掘ったり医療支援を行ったりした。ピアノ教師となった娘もいた。私の父は南カリフォルニア大学の東側の教会で牧師としての歩みを始めた。
また、祖父とおじのポールは、強制収容に関する法的根拠を是正する運動を最高裁で争ったゴードン・ヒラバヤシさんの支援にも取り組んだ。当初は敗訴したが、人種差別に基づくその判断は後年覆された。
公園に刻まれた和解と希望
祖父は50年代初頭にボイルハイツへ移り住み、87年に亡くなるまで、俳句や十四行詩の創作に時間を費やした。
開園式では、モンロビアのシェブリン市長や副市長、市議らが最後のあいさつを俳句で締めくくるという珍しい光景が見られた。市は2025年末、過去に日本人系住民に対して行われた差別的な対応の誤りを是正する決議を採択した。シティーマネジャーは強制収容された住民の犠牲を忘れず、また軍務に従事した人々の記憶をたたえる重要性についても語った。
この日は、歩道に刻まれた俳句や、街の歴史を描いたパノラマの壁画が設置された公園という贈り物を通じて、日系米国人コミュニティーが市から肯定されることを実感する日となった。(ジョナサン・ツネイシ)

