昨年3月に出された外出自粛令により、ひとけがなくなった小東京の二街。塩野さんの店(中央)も一時休業を余儀なくされた(2020年3月20日午後1時37分撮影)

 小東京で50年営業し、日本語によるきめ細かいサービスに定評があった化粧品店「リトルトウキョウ・コスメティックス」がこのほど、閉店した。新型コロナウイルスのパンデミックの影響で客足が遠のき、経営に大きな打撃を受け苦境に陥っていた。店主の塩野千鶴子さんは「皆さんに支えられ、大好きな日本人街でビジネスができて幸せだった」と述べ、惜しまれながら半世紀の歴史に幕を下ろした。

 店は元々、塩野さんの姉の藤重雅子さんが始めた。塩野さんは米国で美容師免許を取得後、日本の資生堂で質の高い美容教育を受け、日本人の肌と化粧の好みを知っており「習ったことを教えることができる」と確信。その当時はまだ、英語が不得手な1世が多く「日本語で説明できる私の役目は大切」と使命感を燃やした。
 店は現在のミヤコホテルがある場所に1970年開業。地元のひいき客に加え、82年ごろからは日本からの観光客が増え繁盛し、ロサンゼルス五輪が開かれた84年ごろに最盛期を迎えたという。小東京の再開発事業により立ち退き、85年に現在のジャパニーズ・ビレッジプラザに移転した。
 開店当初から資生堂専門店だったが、80年代に入り日本人観光客がお土産に買って帰る人気のクリスチャン・ディオールとシャネルも扱って売り上げを伸ばした。その頃は、ウエラコートには松坂屋があり、小東京には日本からの団体客があふれ街は潤い「いい時期だった」と振り返る。
 需要に応じて支店を増やした。モントレーパークを皮切りに、各所のヤオハンに出店した。店名はミツワマーケットとなり、一時は小東京、コスタメサ、ウエストコビナ、ローランドハイツに計6店舗を構えた。
 バブル期が終わった90年代初めごろから観光客が減り、小東京は日本の不況のあおりを受けた。「日本人街全体が寂しくなってしまった。野茂がドジャースに来た頃ぐらいまではよかったと覚えている」。観光客に頼らず、地元客に専念する経営に戻し、商品は再び資生堂一本に絞った。

ネット販売と一線画す
日本語で正しい指導

閉店前に店頭に立つ店主の塩野さん

 自らの役割を「美の神様に仕えた下部(しもべ)」と表現し、天職と心得て励んだ塩野さん。その経営方針は、ネット販売と一線を画し「お客さんに日本語できっちりと教えて、正しく使ってもらうこと。それが私の販売方法」と、客一人一人で異なる肌の質と好みに合わせてアドバイスできることに胸を張る。日本の資生堂から美容スタッフを呼び寄せ、得意客にフリーのフェイシャル・サービスを行い喜ばれたこともいい思い出。「町でお客さんに会って、私が販売した化粧品を使ってきれいになった顔を見ると、とてもうれしかった。肌がガサガサでボロボロになったお客さんに、スキンケアを施して、きれいになっていく過程を見るのがたまらない。お客さんにも大満足してもらえた」

若者でにぎわう小東京
客層は様変わり

 小東京は開発の波に乗って発展を遂げ、飲食や買い物に来る多くの若者でにぎわっている。若い人に合わせ、品ぞろえを変える必要性を感じたこともあったという。だが「私の扱う商品は違う」と強調し、若い人の好みについて「YouTubeで見た、目新しくはやっている化粧品をほしがる。一回のみ使えればよく、内容成分や肌によいかなどは、あまり考えていないように思える」と見る。一方の自身のビジネスは「資生堂の営業方針に沿ってお客さんを教育し、自信を持ってお客さんに合った良い商品を勧める。お客さんも知識をつけて、いいものを買って大事に長く使っていることを誇りに思っている。今の若い人とは全く違う」と説く。
 小東京に来る客層を経営者の視点から分析し、若者の多くがメトロの電車に乗って気軽に来ると感じている。十数年前までは、レストランに入り、座ってゆっくりと食事をする人ばかりだったが、今は買って外で食べたり歩きながら食べる人が目立つ。かつては金曜の夜などは、カップルで食事に来て、その後に入店して化粧品の買い物をしたという。だが今は「そういうお客さんは全くいなくなった。ニーズが違っているのを実感し、お金の使い方が変わってきているように思う」と話す。化粧品に関しては「良い商品を分かりやすく丁寧に説明しても若い人は興味のないものには見向きもしない。でも流行しているほしいものなら、いくら値が張ってもお金を使うことを惜しまない。時代を感じる。だからリタイヤするいい時期だったのかとも思った」

長期休業で経営圧迫
「閉めるしかなかった」

 閉店はパンデミックの影響が一番の原因だという。昨年4月から7月の4カ月間は、一時休業を余儀なくされた。その間の経営は苦しかったが、電話で顧客に対応し「日本語で相談しオーダーできるのは、あなただけ」と励まされ、「止めてはいけない」と、自らを鼓舞した。しかし、休店中も高額のレントを支払わなければならず経営を圧迫し「今のロケーションでは続けることができなかった。お客さんが来ないので売り上げが少なく、店を閉めるしかなかった」と、苦渋の決断を迫られた。
 ここ数年間は、年々上がる店の賃借料と従業員の給与支払いのために売り上げを伸ばさなければならず「数字(売り上げ)が上がらない月もあり、ビジネスを回すのに必死だった」と明かした。また、顧客は日本語を話す新1世から、日本語の接客が必要のない、その娘たちの2世に移り常連が減ったという。高齢になり1人で外出できず、日本語が通じる好きな小東京に来れなくなった客もいて、塩野さんは胸を痛めている。

客と泣いて別れ惜しむ
「幸せな50年だった」

 ジャパニーズビレッジの店舗は、二街に面した人通りの多い小東京の一等地だった。「日本人街のこのいい場所だからこれまで、頑張って続けることができたと感謝している。仕事とお客さんが好きだったので店を構えて、お客さんに来てもらい話すことをエンジョイした」と、声を弾ませた。
 母、娘、孫の3代にわたるひいき客もいて「生まれた時から知っている赤ちゃんが成人して、ずっと買ってくれた」。中には90歳になっても続けて買ってくれる人もいた。『私に世話をしてもらいとてもラッキー』と言ってくれるお客さんもいた。いいお客さんばかりで、別れが本当につらかった。毎日泣いた。お客さんから『これからどこで買えばいいの? 他の店は日本語が通じないので困る』と言われ、答えようがなかった」と話し、閉店後はどこかの店舗の一角を借りて再開することも考えたという。
 最後の営業日には、来店客と一緒に泣いて別れを惜しんだという。「『50年も営業してすごいなあ』と褒めてくれた。花束をプレゼントしてくれたお客さんもいて幸せな50年だったとつくづく実感した」と、達成感に満ちた様子で話した。
 「日本人街が大好き」という塩野さんのビジネスは、小東京で始まり、小東京で終えた。小東京の発展とともに歩んできた50年について「日系人と付き合えたことが最大の喜び。日本人街は一世が作ったもの。二世ウィークに携わる日系人が団結して守ってほしい。日本人は少なくなってきているけど、日本の文化を残してもらいたい」とエールを送る。「皆さんに支えられてお世話になりました。ありがとうございました」

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